5.31.2008

生物多様性基本法が成立

生物多様性基本法が成立したとのことで、どんな法律の内容なのか、調べてみました。
ネットで検索して出てきたのは、衆議院での法案段階の文案のようですが、その目的と理念を読んでみますと、
(目的)
第一条 この法律は、人類の存続の基盤である生物の多様性を将来にわたり確保することの重要性にかんがみ、環境基本法(平成五年法律第九十一号)の基本理念にのっとり、生物多様性の保全等について、基本理念を定め、国、地方公共団体、事業者及び国民の責務を明らかにし、並びに生物多様性国家基本計画の策定その他の生物多様性の保全等に関する施策の基本となる事項を定めることにより、生物多様性の保全等に関する施策を総合的かつ計画的に推進し、もって現在及び将来の国民の健康で文化的な生活の確保に寄与するとともに人類の福祉に貢献することを目的とする。

(基本理念)
第三条 生物多様性の保全等は、生物の多様性が人類の存続の基盤であり、かつ、豊かで潤いのある国民生活に不可欠であることにかんがみ、将来にわたり生物の多様性が確保されるよう、適切かつ持続的に行われなければならない。
2 生物多様性の保全等は、科学的知見の充実の下に生物の多様性を確保する上での支障が未然に防がれることを旨として行われなければならない。
3 生物多様性の保全等は、生物の多様性を確保する上で事業者、国民又はこれらの者の組織する民間の団体がそれぞれ適切な役割を果たすことが重要であることにかんがみ、社会を構成する多様な主体の自発的な参加と協力が得られるように行われなければならない。
4 生物多様性の保全等は、生物の多様性が地域の多様な自然的社会的条件に応じて確保されることの必要性にかんがみ、地域の特性に応じた取組を促進するよう行われなければならない。
5 生物多様性の保全等は、生物の多様性が人類共通の財産であり、かつ、我が国の経済社会が国際的な密接な相互依存関係の中で営まれていることにかんがみ、生物多様性の保全等に関する国際的な秩序の形成及び発展のために先導的な役割を担うことを旨として、国際的協調の下に行われなければならない。

という内容です。「生物」という単語を「文化」に置き換えても、そこそこ有効なんじゃないかと思いました。
「文化多様性基本法」というものがあってもいいんじゃないかと、ふと考えたんですが、すでに施行されている「文化芸術振興基本法」を、もっと有効なものにしないことには、新しい法律をやたら作ってもなぁ、とも思ったりもしました。

大沼保昭先生は、カッコいい

昨日、私が関わっている東京大学文化資源学公開講座「市民社会再生」で、国際法学者の大沼保昭先生の基調講演を聞くことができました。
私は運営委員として、年間を通じたゲスト講師の検討に加わっていましたが、不勉強なもので、大沼先生の活動を知らず、また著書も読んだことがなかったので、木下直之先生が「ぜひ大沼先生に基調講演をお願いしたい」とおっしゃった時は、その意図が掴めていなかったのです。おそらく、今年度の講師の名前を見た人で「なるほど、大沼先生ね」と納得できる人は、そんなに多くはないと思うんです。
大沼先生の近著の『「慰安婦」問題とは何だったのか—メディア・NGO・政府の功罪』(中公新書、2007年)を読んで、そして昨日、大沼先生のお話を聞いて思ったことは、「カッコいい」ということでした。そして、2年目の「市民社会再生」の、「公共性・多様性・マイノリティ」という前期のテーマに、とても相応しい基調講演でした。
講義の最後の質疑応答のとき、「運動家として、社会問題に対して運動体を起こそうとする若い世代にアドバイスをください」という質問に対して、「運動家としてアドバイスができるほど大したことはしていませんが、ケンカのしかたならいくらでも教えてあげます」という答えに、しびれました。あと、「例えば在日韓国人・朝鮮人の方が、私が関わった運動によって、何らかの問題が改善したことについて、私に感謝してくれることがあるけれども、礼を言われる筋合いはないんです。私は日本が好きだから、日本人が好きだから、当然のことをやっているだけですから」という話に、しびれました。
日本人としての誇りを強調して自虐史観に殊更非難するよりも、また、アジア諸国や欧米に対してひたすら低姿勢になるよりも、大沼先生の言説と所作は、本当に、カッコいいと思いました。

5.30.2008

スポーツ省・・・ふーん。

5月27日付の東京新聞|TOKYO Web「スポーツ省の新設を提言 自民党調査会が中間報告案」という記事を読みました。
・・・ふーん。
消費者庁とか、スポーツ省とか、なんで新しい省庁を作ることに血眼になるんでしょうかね。
こういうニュースを聞くと、「文化庁も文化省に格上げを!」という声が必ず挙がると思うんですが、どうなんでしょうか。
いまのところ、あまり賛成できない私です。

5.29.2008

そういえば、佐賀県議会のことを思い出した

世田谷美術館での横尾忠則氏の展覧会の問題で、そういえば昨年、佐賀県議会で荒木経惟氏の作品が問題になったことを思い出しました。ocn artgene, 2007年10月1日「佐賀県議会、アラーキーのプロジェクトにダメ出し」というニュース。
アラーキーこと写真家の荒木経惟氏が佐賀県とともに進めているプロジェクトに対し、同県議会で議員が 「ヌード写真家に税金を投入するのはいかがか」 と批判した。

この『荒木経惟「日本人ノ顔」佐賀ノ顔プロジェクト』は、結果的には予定どおりプロジェクトは遂行されたようです。
「ヌード写真家に税金を投入するのはいかがか」 と批判した議員さんの道徳観、倫理観、美意識から、税金の投入に異議があったとしたら、それはそれで議論すべき場があってもいいような気はします。それが議会の予算を決める場所が適切だとは思わないんですが。
ただ、おそらくは、まだ記憶に新しい滋賀県議会でのびわ湖ホール問題と同じように、政治力学の中で芸術を利用しているに過ぎないと推察できます。
こうした政治の力学とアートは切り離すことができないとは思いますが、なんというか・・・もう少しマシな議論にならないものか、という気持ちになりました。

5.27.2008

子どもに「見せない」とか「使わせない」とか

世田谷美術館の「冒険王・横尾忠則」展を、区内の小学校の児童が鑑賞する予定だったのが、一部の教員が「教育的ではない」という意見を発して、区の教育委員会が小学校全校の美術館での鑑賞をキャンセルした、というニュース(5月16日東京新聞 TOKYO web『児童に不向き、過激』 横尾展の鑑賞教室中止 世田谷区教委)がありました。
また、教育再生懇談会では、子どもを有害情報から守るために、小中学生に携帯電話を持たせないように関係者の協力を促す、というニュース(5月27日毎日jp 教育再生懇:第1次報告 小中生携帯、性急な規制困難との結論)がありました。
この二つのニュースから思ったんですが、子どもに「見せない」とか「使わせない」ということを、政府や行政機関が言うことに、違和感を感じなくてもいいんだろうか、と思いました。
たしか5年連続で「子どもに見せたくないテレビ番組」に選ばれたバラエティー番組があると思うんですが、こういうのも、いずれ「子どもには見せないように関係者の協力を促す」ことになるんでしょうか。世間はそれを望んでいるんでしょうか。
私には、政府や行政機関が「見せない」「使わせない」ということを決めてくれれば、大人が説明しなくても済むからラクでいいですね、という以外にどれほどの意味があるのか、ピンとこないです。子どもと、その子どもの周りにいる大人が、ちゃんと向き合って考える機会を、失わせていると思うんですが。
これに関しては、表現の自由とはまた別の問題意識を感じています。

ご無沙汰してしまいました

この1週間くらい、いろんな仕事が集中してしまい、加えて軽い頭痛がずーっと続き、カラダがボヤケた感じがして、ブログの更新がご無沙汰になってしまいました。
考えたことや書きたいことは毎日あるんだけれども、どうも手が動かなかったんですが、ちょっと回復したので、再開します。
それにしても、世田谷美術館のことは気になるし、教育再生懇談会の、携帯電話に関する考え方も気になる。世間的には、あまり話題になっていないんでしょうか?

5.19.2008

「生きるに値する魅力的な社会にしていく」

「『坑道のカナリア』の声を聞け 〜「硫化水素自殺」報道に思うこと〜」と題したNPO法人自殺対策支援センター ライフリンクの代表者、日記、ぜひお読みください。
この文章の最後にある「生きるに値する魅力的な社会にしていく」という言葉の重さは、文化政策に課されている問題だと、少なくとも私は思っています。

現代の人間社会と「集約畜産」

先のエントリーの「集約畜産が感染症を拡大させている」というニュースは、文化多様性について様々なことを想起させてくれる話だと思いました。
現代の人間社会を「集約畜産」に置き換えるというのは、あまりにも自虐的かもしれませんが、産業や経済のシステム、メディアや教育のあり方を考えても、集約畜産における家畜と、現代社会の人間は、それほど遠くないイメージだと思うのです。それに、感染症は、もちろん医学的な意味でもあるとは思うのですが、精神の病としてのストレスや鬱病なども、現代社会におけるある種の感染病だといえないだろうか、と思うのです。後を絶たない自死にしても、動植物を標的にした破壊行為や殺害などは、一般社会からはみ出した特別な人間の行為というよりも、集約された私たちの社会から発生し、私たちも多かれ少なかれ感染している病の現れではないかと。
「生物の多様性は、ウイルスの人間への影響を弱め、世界規模で保健の維持を保障する」ということが医学的に証明されるのであれば、私は、文化の多様性もまた、世界規模での保健の維持、ひいては世界平和の維持に資するとうことが証明できると思うんです。
ただし、多様であるだけでは無秩序や混乱と同じだという見方もあるでしょう。多様性のうえに成立するバランスや共生、互恵・互酬関係をどのように構築するのかが難しいのだと思います。

5.15.2008

生物多様性と文化多様性について

ちょっと古いネットの記事ですが、「集約畜産が感染症を拡大させている」というニュースを読んで、とても興味深かったです。
渡り鳥がヨーロッパに鳥インフルエンザを持ち込んでいると非難されている。しかし、畜産、そして人間の自然界への侵入が、新興感染症流行の大きな要因だというのが一般的な見方になってきている。

(中略)
人間への感染が容易になったのは、環境の変化と農業の集約化が原因だ。そして、いったん人間に感染した疾病は貿易と航空の国際化に伴い、世界中に急速に広まっていく。

(中略)
ヨーロッパ議会議員のキャロライン・ルーカスは、集約農業が、現在、疾病の普及に大きな役割を果たしているという。 家畜の成長を最速にするために種の多様性が減少し、動物はその 繁殖と飼養方法のために、病気に罹りやすくなっている。利益の追求は動物、そして人間をより危険に曝すことになった。現在の政策が、基本的な畜産をおろそかにする農業を助長しているのだ。

(中略)
SARS、エボラ、BSE、CJD、HIV/エイズ、鳥インフルエンザH5N1型などの疾病は、環境の変化によって引き起こされたものであり、環境の変化はほとんどの場合、人間が引き起こしている。人間には動物と共通の病原体が非常に多くあるので、野生生物の疾病を引き起こす人間の影響が、廻りめぐって公衆衛生を脅かすことになる。

(中略)
ウイルスが狙う標的や宿主となる生物の種類を数多く確保しておくことにより、生物の多様性は、ウイルスの人間への影響を弱め、世界規模で保健の維持を保障する。 生物の多様性は新しい治療法や治療薬を 確保するだけでなくて、病原体の有機体から人間を保護する役目も果たす、とDiversitasのアン・ラリゴーデリー代表はいう。

(中略)
新興感染症を通して、医学、獣医学、野生生物保全の専門家らは同一の課題を共有している。問題は小さなものではなく、それに取り組むのは容易ではないが、共通の問題を認識するのが第一歩だ。
2006年2月22日
The Guardian

文化多様性について考えるときに、とても重要な示唆があると思いました。

根を下ろすのと芽が育つのは、違うこと

植物にとって根を下ろすということは、芽が育つということとは違うことなんだと思います。「根無し草」という言葉がありますが、goo辞書によると、
(1)池などの水に浮いていて、根が地中に張っていない草。浮き草。
(2)「浮き草(2)」に同じ。[季]夏。
(3)しっかりしたよりどころをもたない物や事のたとえ。「—の生活」

とあります。芽が育っても、花が咲いても、実をつけたとしても、根が下りていない植物は存在するわけです。
地域文化や、アーティスト個人で「根を下ろす」ということも、「芽が育つ」ということとは違うことだと思うのです。「よりどころをもつ」ということができずに花を咲かせたり実をつける地域文化やアーティストは、外部環境の変化に弱いのではないかと。
分かりやすい事象としては、自治体の政策の変化が、地域文化に大きな影響を与えるということがあります。あるいは、助成金を獲得できるかどうかによって、アーティストの活動は不安定な状況になるということもあります。こうした問題は、芽や花や実といった目に見える部分ではなく、「根が下りていない」という、目に見えない部分に問題の「根幹」があると思うのです。
そういう意味で、最近、自治体あるいは自治体出資の文化財団によるアーティストの創造環境を支援やコミュニティプログラムへの助成、劇場による創造活動の支援プログラムなどは、根を下ろすための有効な手法だと言えるような気がします。

アーツコミッション・ヨコハマ(ACY)の試み
岐阜県可児市文化創造センターが文学座と地域拠点契約
横浜市の新補助金「アスハマ」が申請方法簡素化、一部前払い可能に
川崎市アートセンターがクリエイション・サポート事業開始
東京芸術劇場の大規模改修計画詳細を建通新聞伝える

少しずつ、文化環境も変わってきているようです。

5.13.2008

根を下ろす、ということ

生物と文化の多様性にこだわりはじめたのは最近ですが、前にも農業と文化の類似性に思いを巡らしたりしました。それ以前には、植物の成長過程に地域文化の発展プロセスを例えたりしていました。
それは、土地を耕し(劇場やホールなどのインフラの整備)、種を蒔き(参加機会の提供)、苗を育てて(人材の育成)、花が咲き(鑑賞機会の提供)、実らせる(創造と情報発信発信)、というイメージでした。
長い間、私の中ではこのイメージを持ち続けていたのですが、最近、大きく抜け落ちていたプロセスに気がついたのです。それは「根を下ろす」ということです。
もちろん、根を下ろしているから発芽も開花も可能ではあるのですが、根が浅い植物は枯れやすいでしょうし、5年、10年、50年さきも花を咲かせたり実らせたりするためには、根がしっかりと下りていなければならないわけです。
地域文化を見ても、アーティストひとり一人を見ても、同じことが言えると思うのです。立派な花が咲いている地域もあるし、豊かに実っている地域もあります。ただ、そうした地域に、しっかりとした根が下りているかというと、必ずしもそうじゃないと思うのです。
難しいのは、外からは根が見えないということです。花が咲かなくても、実らなくても、根がしっかりと下りていれば、次の年には花が咲くかもしれないし実りがあるかもしれない。それなのに、根を枯らしてしまうことがあるかもしれない。逆に、花も実もつけない植物を大事に見守ることで、しっかりと根を下ろし、ある時から花を咲かせることがあるかもしれない。
その根の状態を見極めるのが、文化行政やアートマネジメントにとって、とても大事な仕事なんだと思います。それはきっと、花や実を管理するよりも難しいことでしょう。

5.12.2008

理想的な畑

先の連休中に「道場破り」の会場にしていた「篠原の里」という、里山の廃校を活用した宿泊研修施設の近くに、「パーマカルチャー・センター・ジャパン」があります。
たまたま道場破りで宿泊していた私は、朝6時くらいに目を覚まして周辺を散歩しようと外に出たら、Oさんを含めて20人くらい、パーマカルチャーの若い人たちが、タオルを首に巻いて軍手に長靴といった出で立ちで、ぞろぞろと歩いていました。私はOさんに朝の挨拶をし、一緒について行っていいですか、と聞いたら、どうぞどうぞと快く受け入れてくれました。
パーマカルチャーの畑に着くと、そこは畑というよりも、雑然と草が生えていているようにしか見えません。収穫されるべき野菜が列を成している様子はなく、ビニールハウスやスプリンクラーのような近代的な設備もありません。
リーダーのような若いお兄さんは、雑然と生えているようにしか見えない植物を見分けながら、これは刈った方がいいね、これは残しておくといいね、といったことを言いながら、鎌で刈り取ったり取らなかったりしています。それを周りの人たちは聞きながら、じっくり植物を観察し、やはり刈り取ったり取らなかったりしています。
どうやら、何かの野菜を植えて育てるという発想ではなく、できるだけ自然に委ねた結果、育ったものを収穫するということのようです。農業のことに詳しくない私が一見して、それは経済的な農業には見えませんでした。しかし、長い時間をかけた試行錯誤の末に、自然に委ねつつ、計画的に野菜が収穫できるような畑が実現できたとしたら、それは人の手でコントロールする農場よりも経済的で、環境に優しく(というか環境そのもの)、かつ恒常的(パーマネント)な農業(アグリカルチャー)になる…というのがパーマカルチャーの理論のようです。
Oさんに、理想的な畑になるまでにどのくらいかかるんでしょうかね、と聞くと、あっさり「10年はかかりますよね」とのこと。
その言葉を聞いて、そうだ、やっぱり農業と文化は同じなんだよなぁ、と思いました。

多様性を維持しながら、経済的であること

土曜日、息子が通っている保育園で、懇親会がありました。保母さんと子どもたちと親が交流し、一緒に美味しいお昼ご飯を食べました。昼の早い時間にお開きとなりましたが、前から仲良くしてくれていた二つのご家族がウチに遊びに来てくれました。話しているうちに、一緒に鍋でもして飲もうよということになり、最近引っ越してきた近所の親子も加わって、床の間に10人の子どもと大人が鍋を囲みました。
その最近引っ越してきたOさんは、前から私たち家族と仲良くしてくれていたKさんと、かなり以前からの友人。藤野町に「パーマカルチャーセンター」という、ユニークな農業の理論と実践を教える場所があって、そこで出会ったそうです。パーマカルチャーのことは、私も漠然と興味があったので、この機会にOさんにいろいろ聞いてみました。
詳しいことはウェブサイトでも情報が出ていますが、Oさんの説明で私の心に響いたのは「要するに、できるだけ多様性を維持しながら経済的な農業を目指しているということです」という言葉。
それは、文化の多様性と、その中でのアートのあり方を考えていた私にとって、とても大きな示唆を与えてくれるものでした。

5.11.2008

学校裏サイト、不忍池のワニガメ、文化と生物の多様性

先日、横浜市の教育委員会が、「学校裏サイト」等でのトラブル未然防止に関する調査結果というのをサイトで発表しました。
概要しか確認できませんが、調査対象は141の中学校のうち105校で学校裏サイトが確認され、「学校裏サイト」での書き込みが、いじめや不登校、暴力行為などの深刻な問題に発展した事例のある学校は、15校となっています。
私が注目したのは、「学校裏サイト」に関係したトラブルを未然に防止する為の効果的な方法について、中学校がどのように回答したか、です。
「学年集会や学級活動での呼びかけ、及び個別相談や個別指導の実施/啓発資料(警察や教育委員会作成の資料)を生徒や保護者へ配布し、指導/書き込みをした生徒に対し、直接削除させる指導/学校間の連携による情報収集/「いじめストップ」等の生徒会活動/プロバイダ等への校長名等での削除依頼/学校におけるインターネットトラブル防止教室の開催」といった回答が紹介されています。
私は、これで学校裏サイトが防止できるとは、とうてい思えないです。

話が変わりますが、私が文化多様性と生物多様性のことを前のブログに書いたあと、私が運営委員と事務局として関わっている東京大学文化資源学公開講座「市民社会再生」の運営委員会代表の木下直之教授から、来週から始まる講座の挨拶文の原稿が送られてきました。その文章は公開講座のブログに掲載していますが、一部を引用させていただきます。
文化多様性や生物多様性という言葉をしばしば耳にします。そのつど、多様であることの最小単位は何だろうという疑問が、私には浮かびます。昨年、東大の隣の不忍池に、ワニガメを指して、「異常な生物」に注意という看板が建てられました。そして、すぐに、「異常な生物」は「危険な生物」に訂正されました。生物の多様性を認めるのならば、「異常」な生物はありえないからです。しかし、ワニガメは、人にかみつくという点で「危険」であるばかりか、ある地域の生態系を破壊し、結果的に生物多様性を破壊するという点でも「危険」だと見なされるがゆえに、排除されるのです。看板の「生物」を「人物」に書き換えても同じでしょう。建前としては。
(中略)
国民が画一的な生活を強いられる全体主義国家を一方の極とすれば、その対極には、個人が好き勝手に暮らす社会が想定されます。それらはいずれも、非現実的な社会であり、現実の社会は、両者の中間のどこかに折り合いをつけ、建設されてきました。妥協の産物、といって悪ければ、調整の産物です。新たな社会を構想するということは、新たな調整、新たな仕組みづくりにほかならず、そのためには、いったん「多様性」の理念を問うという作業が不可欠ではないか、と私は考えています。

文化多様性を破壊するような、表現による暴力(暴力的な表現とは違う意味で)は、認めてはいけない。けれども、表現を規制したり封殺するのではなく、あくまでも表現は自由であるべきではないか。ここで必要なのは、表現を受容する側の情報リテラシーであり、表現の多様性を維持することで、互いの価値観を許容し合える環境を作ることだと思うんです。
そういう世の中で果たすべきアートの役割って何だろう、と常々考えています。

5.09.2008

表現の自由と文化多様性、生命維持と持続可能性

ここ最近、映画「靖国」の問題をきっかけに「表現の自由」ということに、強い関心を持っているんですが、そもそもなんで表現の自由が憲法で保証されなければならないのか、ということに遡って、自分なりの言葉で考えてみたんです。
というのは、「表現の自由」を標榜した「表現による暴力」も、実際あると思うんですね。表現による暴力の危険がありながらも、どうして表現の自由を守らなければならないのか。暴力がおきないようにするにはむしろ、表現は規制した方がいいのか?と。
いやいや。
たぶん、多様な考え方や価値観が共生することが、人間が一人で生きていけない以上、生命を受け継いで維持していくために、絶対条件だということだと思うんです。
つまり「文化多様性」と「生物多様性」は、同じ問題だということをやっと説明できるような気がしてきたんです。
ある生物種が生命を受け継ぐときに、遺伝子の組み合わせが無限にあることで、環境に適した進化が可能になるわけです。その環境は、多様な生物種があることで、相互に依存しながらそれぞれの種の生命を持続的に受け継ぐことができる。
これが、多様性が失われると、もしかしたら、新たな生物種として感染力のあるウィルスが発生し、その種は途絶えるかもしれないし、その環境は維持不可能になるかもしれない。
それと同じように、もしかいたら、私たちが目や耳にする表現で伝搬力のある考え方や価値観に動かされて、暴力を認めたり、傷つけ合うようになるかもしれない。
同じ手段をつかって自殺者が相次ぐ社会なんて、異常な環境でしょう。それは、文化多様性の危機の現れだと思うんです。私たちが生きるこの社会が、価値観の多様性に乏しい環境であることが、具体的に症状として、結果として現れていると思うんです。
生物の多様性を維持するためには、もしかしたら、自然に対して人間の手をつけないのが一番、よいのかもしれません。それと同じように、私たちの環境で文化の多様性を維持するために表現を規制するのではなく、表現は自由であるべきだと思います。
なので、持続可能な社会形成と生命の維持のために、やっぱり表現の自由は保証されるべきだと思います。

5.08.2008

藤野で「道場破り」をやる意義


「道場破り」のことを、ダンスの研究、批評をされている木村覚さんが、とても丁寧にブログに書いてくれました。これを読んでいただければ、この企画の趣旨や内容は多くの人に分かってもらえるし、木村さんが評価してくれていることが、参加された皆さんにも伝わっていれば嬉しいなぁと思います。
木村さんの文章の最後に、この企画を藤野でやる意義はあるけれども、もっと人の多い場所でやってもいいんじゃないかという、とても真っ当なご意見がありまして(笑)、それについて考えたことを書きます。
藤野でやるのは、手塚と私が子育てしながら活動するという物理的な条件と、魅力的な環境なので、それに触れてほしいという理由もあります。が、もっと大事な理由は、面白いものは東京でしか得られないわけじゃないことを示したいのと、1時間以上電車に乗って30分くらいバスを乗り継ぐようなハードルを越えてダンスを見に来る人と、藤野に暮らしていて今までダンスを観たことがない人にこそ見てほしいということ、等々の理由があります。
それは、とてもささやかだけれども、私たちにとっては重要な「抵抗」であり、とても楽しい「戦い」だということができます。ささやかすぎるかもしれませんが。
3歳の息子が通う保育園で知り合ったお母さんが、4歳の子どもと友人を連れてきてくれました。会場の近所に住んでいる、しょうがいを持つ女性がリハーサルを含めて両日とも観てくれました。一緒にご飯を食べたり、ワークショップにも参加してくれたりする中で、別にダンサーであろうとなかろうと、藤野の住民であろうと都民であろうと、楽しい時間を共有できました。
両日それぞれ40人くらいで、経済的にはもっと参加者を増やしたいという思いもないわけじゃないけれども、私は、同じ参加者数でいいから、もっと多様な人に参加してほしいし、そういう状況こそが「世界」だと信じています。
それが藤野でやった理由ですが、それなりの理由があれば、人の多いところでもやりたいです。

5.07.2008

道場破りshowing 第2期/後半戦


この連休、神奈川県と東京都と山梨県の境にある藤野町の里山の廃校で、5人のダンサーが3泊4日の濃密な時間を過ごしました。以前にも書いた「道場破りshowing」の第2期/後半戦。
山賀ざくろ、黒沢美香、中村公美、捩子ぴじん、手塚夏子。手塚夏子が昨年以来、それぞれのダンスの手法をインタビューして、その手法にトライして、前半戦では手塚夏子が他の4人の手法にトライしている状況をお客様に見てもらう、ということをやってみました。
そして、後半戦。今度は全員が、他のメンバーの手法にトライする状況をお客様に見てもらいました。公開したのは5月5日と6日の2日間でしたが、それ以前のダンサー同士による手法の交換を間近で見ていて、本当に面白く、濃密で、楽しかったです。
感想は別の機会として、藤野まで足を運んでいただいたみなさん、ありがとうございました。そして、4日間で9回、延べ122食の食事を心を込めて作り続けてくれた、鈴木ユキオさんと安次嶺菜緒さん、高須賀千江子さん、心から感謝します。
安次嶺さんのブログに、メニューが載ってます。食べられなかった人は、ぜひ、想像して味わってみてください。

5.03.2008

ふたたび、映画「靖国」問題

今日から渋谷で映画「靖国 YASUKUNI」が公開されるためか、ふたたび報道が増えています。
4月26日の毎日.jpに「映画「靖国」:映像一部削除要求 制作会社、神社側に手続き質問書送付」という記事があります。
国会議員による助成金の妥当性についての問い→映画上映を中止する映画館の続出→新たに上映を決定する映画館の続出→国会議員が映画中の主要人物と電話で会話し肖像権の侵害を主張→靖国神社が「事実を誤認させるような映像」の削除を要求
流れを短く追うと、こういうことになると思います。
世論の動向を見ると、多くの人がこの映画に興味と関心を持っているのは確かですが、表に現れるか現れていないかは別として、この映画を「どうしても見せたくない」という強い意志を持つ人々がいるように見えます。
私は、この映画について予告編で見たときに、靖国神社と政治との関わりよりも、主要人物である刀匠が、どのような美意識や価値観を持っているのかに興味を持ちました。その美意識や価値観に、自分は共感できるのだろうか、ということが見てみたい理由です。
「どうしても見せたくない」という思いのある人々は、こうした「共感への期待」を閉ざそうとしています。それはいつまでもアンタッチャブルなもので、そこに強い連帯が生まれているのは、不穏に感じてしまうのです。彼ら/彼女らが「見せたい」「伝えたい」と思う美意識や価値観は何なんだろうか。
映画「南京の真実」が、全国各地の公共施設や靖國神社の遊就館で上映されているようです。公式サイトで予告編の映像も見られます。制作発表記者会見の映像も見られます。これだけ著名な学識者や多数の国会議員が応援している映画なのかと、驚きます。こうした先生方が映画「靖国」への助成の妥当性について国会で追及し、「歴史の真実」や「国家の名誉」を謳うのか、と。でも、こうした予告編の映像や、社会的な立場のある方々の発言を聞いても、そこに私自身の「共感への期待」が生まれないのはなぜだろう。間違った教育を受けてきたからなのでしょうか。むしろ、映画「靖国」の予告編でしか見られない、あの刀匠であれば、その美意識や価値観に共感や敬意が持てるかもしれないのに。

5.02.2008

ネガティブな連鎖と共感

最近のニュースを見ていると、ショッキングな事件が連鎖反応を起こすことが多いような気がします。チューリップ、硫化水素、聖火リレー、どれを見ても、何かが連鎖しながら、拡大していますよね。
こうした連鎖反応を観察すると、どうもネガティブな感情の方が、ポジティブな感情よりも、連鎖反応の強さや連鎖のスピードの早さが勝るということが分かります。チューリップを大事にしたいと思う人が圧倒的に多くいるとしても、チューリップを見るとムカつく、メチャクチャにしたいと思う感情が、それに刺激される人に伝搬する力が強く、早く広がる。
こういうときに、「共感すること」はとても大事だと思います。ネガティブな連鎖に巻き込まれないように、同時に、ネガティブな感情にも共感しながら、対話を諦めない。
悲惨な殺人事件の報道で、逮捕された容疑者の「誰でもいいから殺そうと思った」という供述を耳にしたのは、この数年間で何回あったのかな。もちろん、許せませんよ。けれどもその容疑者は、その行動をとる前の、どこかのタイミングで「誰でもいいから共感してほしい」と叫んでいただろう、と。「誰でもいいから」は、原因でもあり、結果でもある。結果も原因も、「私」と無関係ではない。だから、結果を生む前に、私が共感することも必要なんだ、と思いました。
こう書きながら、自分でもなんか説教臭くて偽善的な言い方で、嫌な感じだなぁと思います。もし私が被害に遭った人間だったとしたら、それでも加害者に共感できるのか。無理かもしれない。けど、いまは、共感することは大事だと思う。そういう私の気持ちも、誰でもいいから共感してほしいなぁ。

5.01.2008

"TRAPPED IN AN ELEVATOR"

exciteニュースの「世界びっくりニュース」という、面白いサイトを拝読しています。4月23日付の記事で「41時間エレベーターに閉じこめられた男性の動画が話題に」という見出しを見て、とても興味を惹かれました。
41時間にわたってエレベーターに閉じこめられた男性を捉えたおよそ10年前の監視カメラ映像が、インターネットで話題になっている。

彼が1999年10月15日、ニューヨークのミッドタウンにある高層建築マッグロウヒル・ビルのエレベーターに閉じこめられた際の映像は、『ニューヨーカー』誌4月21日版の記事にあわせて同誌のウェブサイトで公開された。YouTubeでは月曜日の朝までに28万回以上の視聴回数が記録されている。

この記事に貼られているリンクから映像を見ると、閉じこめられたエレベーターの監視カメラが捉えた41時間の状況を、早回しで数分にまとめられています。
ある意味で、とても生々しい映像であり、また別の意味では、とてもアーティスティックな意味を持っていると感じました。
普段私たちが使っているエレベーターで、こういうことが自分の身にもあり得る、ということを、監視カメラが冷たい眼差しで見ていることが、逆に私たちに「生々しさ」となって伝わる。そして、この狭くて閉ざされた空間でもがいている彼は、地球温暖化などの危機が、ゆっくりと、でも早回しにすれば「あっ」という間に自分自身に迫ってくるという想像を喚起させます。たぶん宇宙から見たら、閉じこめられたエレベーターに乗っている彼と、いまの私たちは、同じように見えるのかもしれない。
このドキュメンタリー映像と、同時代のアート。どちらが社会に対してパワーを持っているだろうか…と。

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