5.09.2008

表現の自由と文化多様性、生命維持と持続可能性

ここ最近、映画「靖国」の問題をきっかけに「表現の自由」ということに、強い関心を持っているんですが、そもそもなんで表現の自由が憲法で保証されなければならないのか、ということに遡って、自分なりの言葉で考えてみたんです。
というのは、「表現の自由」を標榜した「表現による暴力」も、実際あると思うんですね。表現による暴力の危険がありながらも、どうして表現の自由を守らなければならないのか。暴力がおきないようにするにはむしろ、表現は規制した方がいいのか?と。
いやいや。
たぶん、多様な考え方や価値観が共生することが、人間が一人で生きていけない以上、生命を受け継いで維持していくために、絶対条件だということだと思うんです。
つまり「文化多様性」と「生物多様性」は、同じ問題だということをやっと説明できるような気がしてきたんです。
ある生物種が生命を受け継ぐときに、遺伝子の組み合わせが無限にあることで、環境に適した進化が可能になるわけです。その環境は、多様な生物種があることで、相互に依存しながらそれぞれの種の生命を持続的に受け継ぐことができる。
これが、多様性が失われると、もしかしたら、新たな生物種として感染力のあるウィルスが発生し、その種は途絶えるかもしれないし、その環境は維持不可能になるかもしれない。
それと同じように、もしかいたら、私たちが目や耳にする表現で伝搬力のある考え方や価値観に動かされて、暴力を認めたり、傷つけ合うようになるかもしれない。
同じ手段をつかって自殺者が相次ぐ社会なんて、異常な環境でしょう。それは、文化多様性の危機の現れだと思うんです。私たちが生きるこの社会が、価値観の多様性に乏しい環境であることが、具体的に症状として、結果として現れていると思うんです。
生物の多様性を維持するためには、もしかしたら、自然に対して人間の手をつけないのが一番、よいのかもしれません。それと同じように、私たちの環境で文化の多様性を維持するために表現を規制するのではなく、表現は自由であるべきだと思います。
なので、持続可能な社会形成と生命の維持のために、やっぱり表現の自由は保証されるべきだと思います。

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