12.18.2011

文化は人間の生死の問題です

文化政策学会のラウンドテーブルの最後に、パネリストの一人の方から「文化は、人間の生死に関わる問題ではないから、震災のような非常時のときに予算が削減されるのは仕方の無いことだけれども、震災を実際に体験して、文化の大切さが身に沁みてわかった」という発言がありました。
この方のプレゼンテーションも、上記の発言の前後の文脈も、震災を踏まえて、今まで以上に文化政策を推進する必要性がある、という趣旨の発言で、そのことは私もそのとおりだと思うんです。ただ、私は「文化は、人間の生死に関わる問題ではない」とは言いたくないです。文化は、人間の生死に関わる問題だと言い切りたい。
文化を人間の生死と切り離して考えられるのは、文化を「商品」として接する態度だと思うんです。商品として生産、流通、消費される対象としての文化。それはそれで大事だと思うし、完全に市場原理に委ねてしまうのではなく、ある慎重さの上で、政府が関与する意味合いも必要だと思う。
でも、文化は「商品」である以前に「社会システム」だと思う。人間が社会を形成し、動かしていくために、文化は必要不可欠だと思う。そこが、政府が関与する大きな理由でもあると私は思うんです。
昨日買って読み始めたんですが、「生態系は誰のために?」(花里孝幸著・ちくまプリマー新書)の冒頭に、こういう文章があります。
「生態系」は、英語でエコシステム(ecosystem)といいます。すなわち、ひとつのシステム(系)です。システムとは、多くの要素がお互いに関わりを持って秩序を保っているものなのです。
人間社会でも、多くの人がお互いに関わりを持って秩序を保つことが必要(秩序を保つために秩序を変更することも必要)なわけで、その役割が文化だと思う。だから、文化を単なる商品の生産、流通、消費の対象として捕らえるのではなく、システムとして捉えることが大事。
以前「環境」という行政分野は、ゴミの回収や下水処理を行政が代行し、市民は税金でその行政サービスを購入することが関心ごとだった。でも、今や、環境問題は人間の生死にとって切実な問題になったはずです。今回の震災でなおさら、環境問題は、個人と地球全体が直結する問題であり、そのシステム、つまりエコシステム=生態系の問題に、一人ひとりの生死が関わっているということに気づかざるを得なくなっているわけです。
文化も、コンサートや演劇や美術の鑑賞に必要な施設を整備し、市民にサービスを享受しやすくするために、行政が負担しますということが文化行政だった。それは商品レベルの文化。多くの人がお互いに関わりを持って秩序を保つためのシステムとして、文化を捉えるべき。真剣に。
だって、この国は、年間で自殺者が3万人を超えているんです。文化は人間の生死の問題です。

震災によって浮かび上がった文化環境の「強さ」と「弱さ」

12月16日(金)、早稲田大学で日本文化政策学会第5回研究大会のプレイベントとして「文化の復興/文化による復興 ~震災後の文化政策を考える~」と題したラウンドテーブルがあって、お招きいただいてプレゼンテーションさせていただきました。
私からは、震災後の文化政策を示唆する 私が選んだ3つの事例として、アートNPOリンク「アートNPOエイド」、企業メセナ協議会「GBFund」、いわき芸術文化交流館 「おでかけアリオス」 「Alios plants!」について話をさせていただきました。で、最後の方に、3つの事例から浮かび上がる 文化環境の「強さ」と「弱さ」を整理しました。私としては、自分で言うのもアレですが、うまく整理したんじゃないかと思っているんですが。
【強さ】
  • 迅速で柔軟な民間の動き
  • 個別の活動現場への共感
  • 地域を越えた同一分野の連携
  • 文化機関(=institution)が地域に果たす役割

【弱さ】
  • 政府の対応や動きの鈍さ
  • 継続が困難な中間支援活動
  • 芸術分野を越えた地域の連携
  • 文化施設(=facility)の修復にかかる金と時間
もし、何かご意見とかあれば、お聞かせ下さい。

12.07.2011

「威張るな、経済」…まったくだ。

12月17日付けの毎日.jpに「発信箱:威張るな、経済」と題したコラムが掲載されていました。見出しにヤラレました。内容もすごくいいです。ぜひご一読を。

12.06.2011

劇場,音楽堂等の制度的な…(略)…のパブコメ

最近、Facebookばかりでブログを更新してなかったのですが、本日が締め切りの「劇場,音楽堂等の制度的な在り方に関する中間まとめ(案)」に関するパブコメを出したので、不遜ではありますが、公開させていただきます。なお、あくまでも個人の意見であって、いかなる団体や組織を代表する意見ではありません。
  • 全体を通しての意見①
    p.2(2. 基本的考え方、今後の劇場、音楽堂の在り方)に「我が国の文化芸術の水準が高まるようにしなければならない」という文章以降、「水準」という文言が頻出していますが、その「水準」とは何を意味するのかが伝わりにくいと感じます。
    「水準」が現れる文脈の多くで「国際的に比肩しうる」とあります。その文脈でp.5の「(2) 基本的施策」では具体的に「新国立劇場」が挙げられていますが、例えば新国立劇場を「国際的に比肩しうる」水準として考えるとすれば、どのような実績や指標で測られるのか。一方、p.6の「②地域の文化芸術活動の活性化」では「地域の文化芸術活動を活性化することによって、我が国の文化芸術の水準を高める」とあります。これは、前述の「国際的に比肩しうる」という意味での水準とは異なるように思います。
    また「水準」という言葉には、「高い・低い」という垂直的なヒエラルキーが含まれるように感じます。それは自ずと「トップレベル」という文言にも繋がり、その印象として、「国=高水準・トップレベル」に対して「地方=低水準・裾野」という、中央集権的なピラミッド構造の文化政策の考え方には、違和感を感じます。
    文化芸術振興基本法の第二条(基本理念)の第5項「文化芸術の振興に当たっては、多様な文化芸術の保護及び発展が図らなければならない」とあり、ユネスコの文化多様性条約や平成16年の文化審議会文化政策部会「文化多様性に関する基本的な考え方について」を鑑みても、本中間まとめにおいては、文化の多様性の確保よりも、水準を高めるという姿勢が強調されているように感じます。
    以上について、より一層の検討や検証が望まれます。
  • 全体を通しての意見②
    p.1「劇場,音楽堂とは,もっぱら音楽,舞踊,演劇,伝統芸能,大衆芸能等の文化芸術活動を行い」とあるように、文化芸術の分野としては音楽,舞踊,演劇,伝統芸能,大衆芸能等を対象としています。無形文化財が対象外となっている(もしくは「等」に含まれる)ことは、従来の文化行政の枠組みを前提としている以上は修正が困難であることは予想できますが、劇場・音楽堂には、国立劇場おきなわをはじめとして、無形文化財の公演、公開、普及啓発、人材育成、調査研究等に資するものも数多くあります。よって、劇場・音楽堂の制度的な在り方における無形文化財の位置づけについても検討が必要と考えます。
  • p.3「3. 検討対象」の「地域」
    「地域によっては,公立の劇場,音楽堂等がなく,音楽,舞踊,演劇,伝統芸能,大衆芸能等の文化芸術活動が,民間事業者が設置又は運営する劇場,音楽堂等において行われている場合がある」とあります。ここでの「地域」として想定する範囲が、道州レベルなのか、都道府県レベルなのか、市町村レベルなのかによって、検討対象の性格や数が大きく変わるため、より具体的な検討と説明が必要だと考えます。
  • p.4「(1) 総論 ① 劇場,音楽堂等の機能を生かした文化芸術の振興に関する国及び地方公共団体の責務について」
    箇条書きの3点目の「地方公共団体の責務は,自主的かつ主体的に,その地域の特性に応じた音楽,舞踊,演劇,伝統芸能,大衆芸能等の文化芸術に関する施策を策定し,当該地方公共団体の区域内における劇場,音楽堂等を有効に利用し,必要に応じて,国や他の地方公共団体等との連携を図りつつ,実施することである」とありますが、「国や他の地方公共団体等との連携を図りつつ」という部分に「市民」あるいは「地域の人々」という言葉が「国」よりも前に置かれる必要があると考えます。
  • p.4「(1) 総論 ② 劇場,音楽堂等を設置又は運営する民間事業者の役割」
    ここでの「民間事業者」は、自らが劇場・音楽堂を設置・運営する民間事業者だけでなく、地方公共団体が設置した劇場・音楽堂を、指定管理者制度で運営する民間事業者も含まれていると考えますが、地方公共団体が設立し資金を拠出している法人(公立文化施設を運営する文化振興財団など)は、この「民間事業者」に含まれると考えてよいでしょうか。あるいは、前項①の「地方公共団体」に含まれているのでしょうか。
  • p.5 「(2) 基本的施策 ① 我が国の文化芸術の水準を高めるトップレベルの活動の支援等」
    「国は,我が国の文化芸術の水準を高め,国際的に比肩しうる水準の文化芸術の振興を図るため,引き続き,新国立劇場を十分活用し,創造発信活動等を行うとともに,地方公共団体,民間事業者,文化芸術団体等と連携協力し,これと同程度の水準の文化芸術を提供することができる劇場,音楽堂等を拠点として,トップレベルの創造活動等が全国的に展開されるよう支援する必要がある」とありますが、新国立劇場と「同程度の水準の文化芸術を提供することができる劇場,音楽堂等」というのは、何を同程度の水準とするのか(施設の規模や舞台設備なのか、その施設や事業運営を行う組織体制や人材なのか)、説明が必要に感じました。
    また、「トップレベルの創造活動等が全国的に展開されるよう」国が支援することが、地域に根差した文化芸術の創造に繋がるとは限らない(東京を拠点とする団体の地方巡業を補助する仕組みでしかない)とも考えられるため、どのようにすれば、国の支援が地域に根差した文化芸術の創造に繋がるのか、検討が必要だと考えます。
  • p.7「5. 劇場,音楽堂等の運営に係る留意事項等 (3) 指定管理者制度の運用」
    劇場・音楽堂において、指定管理者制度の運用は非常に大きな課題だと考えます。また、劇場・音楽堂の制度的な在り方が検討される契機でもあったと認識しています。
    しかし、本中間まとめでは、指定管理者制度の運用が「留意事項」として「法的基盤の内容として考えられる事項以外」に位置付けられており、劇場・音楽堂の現場の切実な状況やこれまでの議論の経緯を考えると、消極的な姿勢のように印象を持ちます。
    「制度的な在り方」としては「現実的」ではあるかもしれませんが、p.3「4. 法的基盤の内容として考えられる事項」にもある「設置者の判断のもと」という前提を越えられない(例えば首長や議会が劇場・音楽堂の意義を意に介さない場合、この制度の意義も通用しない)とすれば、法的基盤として整備する根拠自体が弱いようにも感じます。
    地方自治法・公の施設の指定管理者制度の例外規定的な位置付けが可能となるような根拠となり、実効力のある制度の在り方を検討することが望ましいと考えます。
これだけ意見を書いたわけですが、私は、まだ「劇場法」に賛成か反対かを問われても、よくわからない、というのが正直なところです。ただ、法律という形になるかどうかは結果であって、それまでの議論を尽くすことが重要だと思っています。
いつもパブコメを出すときに難しいと思うんですが、できるだけ建設的に書こうと思っていても、どうしても非難や否定めいたニュアンスが出てしまうなぁ…反省。

11.17.2011

その価値に気づいてしまった人の役割

いわきアリオスの「モヤモヤ会議」の続きの話を書かなきゃと思っていたら、藤浩志さんがブログに書かれていました。藤さんは、震災前からやっていた「アリオス・プランツ!」の発案者でもあります。
その藤さんのブログにも紹介されていた、中之作プロジェクトの豊田さんの話を聞いて、私は感服したんです。要するに、津波の被害で解体の危機にあった古民家を、豊田さん自身が購入する(!!!)という形で、なんとか保存した、という話です。
この話を受けて、たしか藤さんから「その価値に気づいてしまった人の責任」という言葉が出て(すみません、前後を含めた正確な発言が思い出せないのですが)、私は、一気にモヤモヤが膨らんだわけです。「責任」という言葉がいいかどうか分からないものの、少なくとも「その価値に気づいてしまった人の役割」ということは、たしかに、あると思う。
つまり、200年の歴史を持つ古民家が解体の危機にあって、それに価値があるから残すべきだと言っても、代々200年間支えてきた世帯主に責任を押し付けるわけにはいかない。そこの地域全体も被害を受けているから、地域コミュニティでも責任は負えない。自治体にしても、津波の被害を受けた建物の解体費用を補助するのが精一杯で、とても保存に責任を負えない。国なんて、とうてい期待できない。
そこで、最後に残された可能性は「その価値に気づいてしまった人」なんだということです。私は、それを責任とは言いにくいけど、たしかに、その価値に気づいてしまった人には、それを残すための役割を果たさねばならないと思う。
今までは、その役割から逃れて、解体を決めた所有者や、地域コミュニティや、自治体や、国の責任にしていたかもしれない。でも、そのようにして私たちが作ってきたのが今の社会だと思うと、自分自身の役割を、もう一回考えないとなぁと思ったわけです。

11.11.2011

振る舞いの問題としてのTPP

TPPの論議の行方に関心があるんですが、経済政策とか農業政策の問題ではなく、文化の問題として考えてしまいますね。
なぜ、そこまでアメリカに追従するように振る舞うのか。振る舞わねばならないのか。あるいは、それに反発すると、愛国的に振る舞うのか。振る舞わねばならないのか。
そのような「振る舞い」の背景にある価値観を、よく観察したい。

11.09.2011

「がんばれ」なんて言えないなぁ

日曜に、福島県のいわき芸術文化交流館アリオスで「いわき復興モヤモヤ会議」に参加しました。とても楽しかったし、いろいろ考えました。
いわき駅からアリオスまで歩く道も、3月11日の地震によってボコボコになった歩道の路面が残されていたり、倒壊の危険のありそうな古い店舗や家屋、それらが既に取り壊された跡の更地が、痛々しかったです。とはいうものの、そこには住み続けて、働いたり学んだり遊んだりし続けている人々がいる。たまたま一泊二日だけ、外から訪れた私の目に映る「痛々しい」風景に比べて、そこに311以前から暮らし続けている人々の様子は、意外にも「淡々と」しているようにも見えました。
けれども原発による放射線量のことを多かれ少なかれ気にしているはずで、おそらくそれは、当事者にも無自覚なまま絶えず「緊張感や恐怖感」を強いられているんじゃないか。その、痛々しい風景、淡々とした生活、無自覚な緊張感や恐怖感。それは、何だろうな、「歪んだ世界」としか言葉が思いつかない。
とにかく、その世界に向かって「がんばれ」なんて言えないなぁと思いました。いや、私自身もつい「がんばれ」と言いたくなってしまう瞬間がある。つい「がんばれ」と言ってしまう前に、誰が、何を、どのようにがんばればいいのか、少し想像してから言おうと。「がんばれ」という言葉よりも、そこに想像力を働かせる方が、優しさだと思いました。
モヤモヤ会議のことは、また別に書きます。

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