1.26.2011

文化施設は「過半数」にはまってはいけない

住民投票によって過半数の同意が得られなければ大規模な公共施設を設置することはできない、という法案について、考えれば考えるほど、文化施設はその法案の対象に含めるべきではないように思えてきました。
たしかに、今までのようなハコモノ行政を改めるためには、住民の意志を反映させる手段は必要だと思いますが、文化施設において「投票による過半数」という考え方は、根本的な設置意義に反するという気がします。
というのは、たぶん突き詰めると、憲法に書かれている思想の自由、表現の自由、結社の自由、集会の自由などを、国民に担保するための場所が、「公」の文化施設だと思うのです。逆に言えば、それを担保できないような文化施設は「公」を名乗るべきではない、とも思うのです。
その、思想や表現の自由を担保すべき場所を、住民の過半数の同意がなければ設置できないなんて、間違っていないか?それは半数を下回る思想や表現は「公」にする場所はない、あるいは「公」にしてはならない、と言っているような気がするのです。半数を下回ろうが、どれだけ少なかろうが、たった一人だろうが、その人は自由に思想や表現を公にすることが担保されて、それを受け止めたいと思う自由も担保される。それが文化施設の役割だと思う。
それと、賛成か反対か、分かるか分からないか、好きか嫌いかといった二元的な価値判断を迫るのは、民主主義に即した合理的な手段に見えて、実は、文化多様性を奪う仕掛けであることも見逃してはいけないと思うのです。
文化施設だけは、その仕掛けにはまってはいけないと、私は思います。

2 件のコメント:

takasaki さんのコメント...

自分に直接的な便益があれば賛成でしょうし、そうじゃないことにみんなのお金(税金)を使うのは損だと思えば、自分に直接的便益がないものはすべて反対、となるかもしれませね。
住民の過半数以上に直接的便益を及ぼせる施設なんてほぼありえないですし、作るべきもの作れないまたはずるずると引き延ばすという結果になるだけなので、私もこの法案はおかしいと思います。というか論外ですね。

大澤寅雄 Torao Ohsawa さんのコメント...

大きな話かもしれませんけど、民主主義のあり方そのものを考えさせられる気がします。その一方で、今まであまりにも一般住民の知らないところでハコモノが作られてきたことへの反省も、たしかに必要だとは思いますけどね。
だいぶ前に、アメリカではやはり公共施設の建設で住民投票があるという話を聞いたことがありました。その人は、アメフトのスタジアムの建設の是非を問う住民投票の話をしてくれて、設置や運営に掛かるコスト、投入する税金の予算額、それに経済波及効果などを提示したうえで、投票に掛けていたそうです。
一方でアメリカは、マジョリティの合意に至らない公共の福祉の、かなりの部分をNPOが担っていて、個人や企業がNPOを支える循環がある。ほとんどの文化施設はNPOが設置・運営している。公共の福祉に対する政府セクターと民間非営利セクターのバランスが拮抗している。そのあたりが、日本と大きく違うと思います。

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