5.27.2010

ジャングルにはライオン以外にも生き物がいる

多様な生き物が、多様な関わり方をしながら循環を生み出している、ということは、決して「弱肉強食」という単一の関係だけで、生物の多様性は成立しない、ということでもあると思うんです。
よく自然界は弱肉強食の世界だと言われるけれども、それは環境の一面しか捉えていないわけで。弱肉強食のジャングルで百獣の王がライオンだとしたら、ある時間が経過するとジャングルにライオンしか残っていないのかというと、そんなことはあり得ないですね。少なくとも人間が手を加えない自然では、そうだったはずで。
これも、文化の多様性を考える上で大事なことのような気がするなぁ。

4 件のコメント:

endou さんのコメント...

 度々おじゃましてすみません。

 素人ゆえ、まことに僭越ながら、文化の多様性は大雑把に言って①各人のレベルと、②公共目的としての社会的レベル、に分けられるのだろうと思います。以下は私見ですが・・・

 ①の各人のレベルは、言うなれば人間固有の権利(天賦人権)であり、思想の自由市場に素っ裸で放り出されている状態。この場合、当然ながら表現の自由(行動の自由の一形態)のみに基づき、各人が各人の身体を使い、もし、他者の援助や他のインフラストラクチャーが必要とあらば自分の財産を投げ打ってのみ実現できるもの・・・

 ②の公共・社会的目的のレベルは、行政国家(福祉国家に近い)概念のもと、各人が各人の文学・芸術・学術その他を他者に向けて発信したい場合に、行政国家(社会的に)がこの支援を行うと言うもので、時の政策によりその条件整備が行われる。ところが、行政国家は、これが最低限度の条件整備に止まるのか?それとも表現に一定の制限を加えて発表するよう仕向けるか?、は、時の政策(つまり「全体意思」)に委ねられてしまう。

 ①と②は、残念ながら、常に対極(②だけでも政策によりナチス時代ののプロパガンダ手法から、日本やアメリカのように政策集団は常に劇場の外にあり援助は極めて稀の場合など両極がある)、その間で揺れていると言えそうです。

 ただ、私は、少なくとも“未来に足りないもの”を探すためにも(もちろんそのような目的など無くてもよいのですが)、文学・音楽・その他の舞台芸術や学問は、社会的援助の対象としつつ、その内容に国家は手出しすべきではないと考えています。
 文化の多様性については、それを(情報として)受け取る各人(ここでは万人)が選択肢することで思想の自由市場が「見えざる手の役割」を果たすことを信じています。
 但し、思想の自由市場で選ばれる可能性の無いような「異端の思想」はどのようにすべきか?・・ということへの回答は私にはまだ見つかっていません。
 『一旦切り捨てられ、それから未来が必要なときに拾われる』、というのがこれまでの歴史でしょうか(ソクラテスがその思想と共に、劇場の多数決によって死刑に処された・・が、必要なものは後に拾われる??、バッハもメンデルスゾーンによって拾われた・・しかしこれは単なる偶然かも??)。

 どうすればいいのでしょう・・・。
 

大澤寅雄 Torao Ohsawa さんのコメント...

endouさん、ありがとうございます。勉強になります。
正直にいうと、文化の多様性を大ざっぱに①と②に分けることができる、という部分から分からなかったのですが、後段の、「“未来に足りないもの”を探すため」という考え方は、分かるような気がします。最後の「但し、思想の自由市場で選ばれる可能性の無いような『異端の思想』はどのようにすべきか?」という問いなんですが、思想の自由市場が健康的な状態を維持するためにも『異端の思想』は必要なのかもしれない、と思いました。
バッハを復興したメンデルスゾーンは、ナチス時代には上演を禁じられていたわけですし、いまの日本で、メディアの伝える情報が大衆ウケする方向に流れてしまう。思想の自由市場が健康的でない状態というのは、そういうことのような気がします。

endou さんのコメント...

Ohsawa さんリコメントありがとうございます。

 >思想の自由市場が健康的な状態を維持するためにも『異端の思想』は必要なのかもしれない<・・・

 あっ、そうだったんだと気づきました。

 “異端の思想”が社会に拾われるかどうかは別問題、要するに異端の思想(異端かどうかは社会のときの価値観の問題、実は判然としていない)が、出てくることが『思想の自由市場』なんだと言えそうですね。

 で、最初の①と②についてですが、私の勝手且つ乱暴な物言いでした。

 なお法的整理として、

①は、自由だが誰も手伝ってくれない状態、いわば勝手に生きる自由と何ら変わらない状態・・

②は、社会的に手伝うこと(援助)が予定されるが、行政権者が表現者を選択したり、表現方法を制限する状態、または、内容を修正するよう働きかける状態で、これが一定程度成熟した状態では、行政国家は立法(一般意思による制度的保障のレベル)によって表現者のための条件整備や経済的な援助により活性化させるが、表現者のルールに則った如何なる表現活動にも検閲は行わない。
 しかし、劇場・美術館掲示など、援助の対象となる表現は、民意により、常に活動場所的制約はせざるを得ない他、常に当該援助が民意を形式的に代表するする者(行政の長)によって恣意的になるリスクを抱えている状態・・また、一般意思(国民の相違)が変化するやいなや援助対象が別なものへと移動してしまう状態・・

・・・という設定です。

endou さんのコメント...

 追記お許しください・・・

 以前、当方のブログで「最大多数の最大幸福(劇場の利用者)」 Vs 「消費される舞台技術(委託労働者の労働力)」などと言うことを考えてみました。

http://blog.goo.ne.jp/gooendou_1958/e/0927d97107136e040df0d79a32a727c0

 これは、劇場利用者や観客と言う、その日における現場内(閉ざされた部分社会)での、少数派から見た多数派の最大幸福の論理で押し切られがちな自治体関連事業(アマチュア動員)でのサービス提供に関する感想です。

 日々の劇場の営みの中での、小屋付きの“ぼやき”(単なる妄想?・・・)です。 

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