6.04.2009

芸能人のスキャンダルと仕事復帰専門のシナリオライター

テレビっていうのは、本当に不思議だなぁと思います。
テレビ(民放)は、スポンサーによって番組制作が成り立っている。
スポンサーのコマーシャルを見てもらうため、視聴率を競い合っている。
コマーシャルには、人気のある芸能人を起用する。
番組の視聴率を上げるためにも、人気のある芸能人を起用する。
人気のある芸能人がスキャンダルを起こす。
芸能人が出演するコマーシャルや番組は放送中止になったりする。
でも、謝罪記者会見を報じる番組は視聴率がアップする。
そして、その芸能人が復帰したときの番組の視聴率もアップする。
不思議だなぁ。
スポンサーやテレビ製作者にとって、スキャンダルは、有り難くないのか、有り難いことなのか、どっちなんだ?
「芸能人のスキャンダルと仕事復帰専門のシナリオライター」をやれば、相当儲かるってことか?
あ、すでに誰かやってるのかもなぁ。

2 件のコメント:

ごみき さんのコメント...

これって、メディアリテラシーの問題を喚起したくて書いているのかなぁ?
これを読んで思ったこと。
ひとつは、「芸能人」とかある人々のグループにレッテル張りすると、そこにいる「個」というものが見えてこなくなる。それは、「○○社員」「○○国人」とか、いろいろな切り口のレッテルはあるけれど、レッテルを貼った時点で、貼った人にとって、その人たちは、自分と同じ人間であるという視点が失われる気がします。アートというのは、もしかしたら、「個」という視点を取り戻すための手段のひとつかもしれない。作る人によって違うものが出来て、それを見る人ひとりひとりの感覚、人生経験などによって見えてくるものが違ってくる。私は、アートに関わる人間の1人として、だれであれ、なるべく人に対して人として対したいと思っています。簡単に言うと、マドンナだって、離婚したら辛いんだよ。

また、メディアの裏側の操作という点では、私はエンタテイメントビジネスとジャーナリズムを分けて考えるべきだと思うので、ビジネスの論理の中で、商売になることを商売にするのは当然だと思う。
これは、なにもメディアに関わらず、普通に会社の中で、「じゃ、この件はこういうことだったということで・・・」というような「美しいストーリーつくり」は日常的にあると思います。本音と建前の社会の日本では。

スキャンダルというのは、ある意味、娯楽のひとつだと思う。平板な日常を生きていくために、会社のお昼時間なんかに、みんなで共有できる話題を提供するものという・・・。
とらちゃんは、批判的に見ているのかな?
それとも、それを利用する商業主義を批判しているのかな?

どこに主眼があるのだろうと思いました。

大澤寅雄 Torao Ohsawa さんのコメント...

ごみきさん、コメントありがとうございます。

「『芸能人』とかある人々のグループにレッテル張りすると、そこにいる『個』というものが見えてこなくなる。」「アートというのは、もしかしたら、『個』という視点を取り戻すための手段のひとつかもしれない。」
というのは、ホント、そのとおりだと思います。

「私はエンタテイメントビジネスとジャーナリズムを分けて考えるべきだと思う」というのも、本来、私もそう思うんですが、今のエンタテイメントビジネスとジャーナリズムは、ジャーナリズムの中にエンタテイメント性が求められて、エンタテイメントの中にジャーナリズム性を取り込まれていて、どちらも批評性が弱くなっている気がします。

スキャンダルを娯楽の一つとして楽しむことと、それを利用する商業主義も、それぞれ取り出すと、特に批判すべきことではない気もします。それらがメディアリテラシーの低下と因果関係があるとは言い切れないかもしれませんが、何らかの相関関係はありそうな気がしています。たぶん私が言いたいことは、そういうことですね。

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