10.07.2008

オリジナリティと模倣

先月末、パートナーの手塚夏子がロンドンで開催された「Artists Open Doors」というタイトルの会議に参加しました。これは、日本と英国のコンテンポラリーダンスの関係者が集まって、ダンスと社会の関係、とりわけ「コミュニティダンス」と言われるダンスのあり方をテーマに、プレゼンテーションやワークショップを行ったものでした。
帰国して早々に手塚から聞いた話は、彼女が参加したパネルプレゼンテーションで、同席されていたJapan Contemporary Dance Networkの佐東さんと議論になった「オリジナリティと模倣」について。
コミュニティダンスの取り組みは、日本よりも進んでいる英国。JCDNの佐東さんの「英国から日本に持ち帰ることができるものは何でも参考にしたい」という趣旨の発言(正確ではないかもしれませんが、どうかお許しを)に対し、手塚は「なぜ、それほどまでに英国を手本にしなければならないのか。日本は日本のオリジナルの方法を追求すればいいんじゃないか」と意見したそうです。それに対して佐東さんは「英国のやり方を日本がマネしたところで、まったく土壌が違うのだから同じものにはなり得ない。どうしたって、そこに現れるものはオリジナルにならざるを得ないんだ」というやりとりがあったそうです。
私は、佐東さんの言われていることは、その通りだと思います。どれほど上手くマネしようったって、どうしようもなく日本は日本なんだよなぁと感じることは、よくあることだし、私は、それが「本家」に対して劣っているとは必ずしも思わないです。むしろ、どうしようもなく現れてしまったオリジナリティが、上手にマネできた部分よりも面白いし、模倣の誤差の中にアイデンティティの本質が発見できたりします。
一方、手塚が「オリジナリティ」という言葉にこだわったのは、別次元の話なんじゃないかと思います。彼女にとって「オリジナル」であることは、アーティストであるための存在理由のようなものかもしれないと思いました。言い換えると、「○○みたいな手法」を模倣することは、アーティストであることを放棄することのように、手塚は考えていると思います。
そこまでオリジナリティにこだわる手塚ですが、最近、能のワークショップに参加して自分の手法の類似点を発見したり、以前から針灸の先生の話を聞いて、自分の身体感覚との共通点を発見したりしています。
要するに、どこまで模倣を追求してもオリジナルにしかなり得ない、という考え方と、どこまでオリジナルを追求しても、その源流を離れるようなオリジナルには到達し得ない、という考え方。どちらも間違いじゃないよなぁと、私は思いました。
手塚が「佐東さんに生意気なこと言っちゃったけど、正直に自分の意見が言えて、よかったよ」と言ってました。佐東さんが、違う意見を受けとめてくれるヒトでよかったよ、ホント。

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1 件のコメント:

手塚夏子 Natsuko Tezuka さんのコメント...

オリジナルという言葉は、オリジン、起源、源泉というようなことから派生しているのではないかと思う。つまり、掘り下げること、遡ることができる何か、そんなイメージが私にはある。

私が「オリジナリティー」という言葉にこだわったのは、アーティストとしての存在理由以上に、自分が存在していることの拠り所ということで、それは人にとって不可欠なものなのではないかなと思う。生物学的にも、遺伝子レベルで、生まれるものは全て同じ種であっても個々がオリジナルだ。

自分のオリジナルを追求していくと、源流を遡って、共通する響きを持った何かに触れる。だからといって、そこで自分のやってる事がオリジナルではないということは言えないと思う。似ているものがあることで、オリジナルではないということにはならないと思う。私にとっては、掘り下げたり、突き動かされたり、試行錯誤する中で自然に生まれるものはすべてオリジナルと言える。他と違ったものでも、問いが足りないもの、試行錯誤が甘いもの、突き上げるエネルギーよりも義務的な意識によって出てくるものは、オリジナルなエネルギーを感じない。

オリジナルな物事はエネルギーとなって何かに響くように思う。
オーガナイザーも批評家もエージェントも、はたまた文化政策に関係する人も、個人的な欲求のない人はいないと思う。個人的な欲求から派生したものごとには、人を動かし響きを与えるエネルギーとなる。そのエネルギーをもっと感じたり、共感したりしたい。個人的な欲求から派生するためには、「自分は何を欲しているのか」を知るために、自分に問うという作業がかかせないのではないだろうか?

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