パートナーの手塚夏子が、村上春樹の『やがて哀しき外国語』(文庫版1997年・講談社)というエッセイ集を読んでいて「とても共感することを書いている」といって読ませてくれた文章があります。
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(日本では)情報が咀嚼に先行し、感覚が認識に先行し、批評が創造に先行している。それが悪いとは言わないけれど、正直言って疲れる。(—中略—)これはまったくのところ文化的焼き畑農業である。みんなで寄ってたかってひとつの畑を焼き尽くすと次の畑に行く。あとにはしばらくは草も生えない。本来なら豊かで自然な創造的才能を持っているはずの創作者が、時間をかけてゆっくりと自分の創作システムの足下を掘り下げていかなくてはならないはずの人間が、焼かれずに生き残るということだけを念頭に置いて、あるいはただ単に傍目によく映ることだけを考えて活動して生きていかなくてはならない。これを文化的消耗と言わずしていったい何と言えばいいのか。
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これは、村上春樹氏がアメリカのプリンストン大学で教鞭をとっていた1991年あたりの、アメリカから見た日本について書いた文章に出てきますが、この「文化的焼き畑農業」「文化的消耗」という現象は、おそらく当時よりもエスカレートしているんじゃないかと思うんです。
創作者を取り巻く環境だけではなく、都市そのものが、本当に「焼き畑」のように文化を消耗しているんじゃないかと。東京は言うまでもないんですが、地方でも「プチ東京」のような都市がどんどん増えて、プチ原宿、プチ六本木、プチ表参道を作っては消費して次のエリアに移動しているような気がします。
「文化的虐殺」という言葉から、「文化的焼き畑農業」という言葉を思い出して、メモしてみました。
2 件のコメント:
こんにちは。
「焼き畑農業」は、僕も考えてましたが、それを行うのは、プロデューサーやコンサルだと思ってました。
お金がある場所に行って仕事をして、予算がつかなくなるとハイサヨウナラ。
そのような仕事はしたくないなぁ、と。
shimoyamaさんこんにちは。読んでいただいてありがとうございます。
プロデューサーやコンサルタントにも、「焼き畑農業」ではなく、文化を、文字通り耕している(cultivate)人もいるとは思います。農業にしても文化にしても、お金は必要ではありますよね。
私は「文化的焼き畑農業」を、生産、流通、消費、再生産というサイクルで見ると、「消費」偏重のシステムではないかと思うんです。もう少し、生産するアーティストや生産する土壌としての環境づくりに、目を向ける必要があると思います。
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