2.28.2011

前衛としての伝統

蛭ケ谷の田遊びを観てから、「伝統」という意味を考え直し始めています。
私はこれまで、伝統といえば、ある価値観を保存し、継承することだと思い続けてきました。大きな間違いではないかもしれないけど、実は、その価値観を取り巻く背景と相対的に見れば、単なる保存や継承という側面だけではないのだなぁと。
700年ほど続けてきた蛭ケ谷の田遊びを続けてきた当事者たちは、その神事を保存、継承してきたわけだけれども、同時にそれは、変わっていく時代に対して抵抗を続けてきたことでもある。現代のようにグローバリズムの急流に流されている、私が乗っているような数多くの船からそれを眺めると、激しい流れに抗いながら溯っていく小舟のようにも思えるのです。
価値観の多様化と言いながら、それが即時にインターネットで情報が伝播し、地球規模の消費の波に飲み込まれる(あるいは廃棄される)システムの中で、その流れに逆らい続けて、徹底的に同じ事を徹底的にローカルで続けることは、見方を変えれば、最も前衛なのかもしれないなぁと思いました。

1 件のコメント:

カムイ さんのコメント...

芸術面は疎いのですが。短い旋律を延々とやる「ミニマルミュージック」はどこか祭囃子を感じさせるなあとふと感じます。前衛芸術で、受けがいいものは、要素としては人間の原初的な部分に作用する部分があるのかなと思います。岡本太郎のイメージでしょうか?逆にそういうものが前衛とされるということは、原初的なものから現代人が乖離している証拠なのかもしれません。前衛の持っている「反復」や、「脱作家性」は民俗芸能にもありますね。

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