10.05.2010

岸井さんとアサダさんへのメール

先週の「住み開きネタ出し会」の、続きの話をしましょうか、という計画が持ち上がっています。いつになるのかは調整中ですが、私が先週からずっと考えていることを、岸井大輔さんとアサダワタルさんにメールしました。以下、その内容をブログにも残します。

(1)
「公共」という言葉は、使う人や文脈によってどうも拡散してしまうんですが、例えば「公=パブリック?」と「共=コモンズ?」を区別して語ることはできるんじゃないか。
ネットで検索したところ、私は読んだことがないんですが、アントニオ・ネグリが「未来派左翼」という著書の中で、以下のように述べているそうです。

〈共〉(=コモン)とは、〈公〉(=パブリック)のことではありません。〈私〉でも〈公〉でもないもののことなのです。現実の社会主義は、〈共〉と〈公〉を混同してしまっていた。つまり、〈共〉というものを国家の財産に、あるいは、国家のサービスに還元してしまっていた。しかし、〈共〉を計画し定義することは、こうした仕組みとは反対にむしろ、〈私〉の概念も〈公〉の概念もともに超克すること、これらふたつのカテゴリーをこえて、〈共〉的な管理のただなかに向かうということです。「みんなでひとつになる」とはまさにこのことであり、それはユートピアではありません。
(2)
「みんなの場所」は、言葉として、理屈として、制度として説明されているし、どうもそれが行き着くところは「みんな=有権者 or 納税者 or 消費者」という枠組みに回収されてしまいそうな気がするのです(それを自ら望む住み開きの主宰者はいるのかな?)。
それに対して「誰のものでもない場所」という考え方は、感覚的というか、身体的というか、理屈や制度では到達できないものじゃないか。実際、宗教的な施設や場所は、世俗を超越した場所に違いないと思うんです。それを「みんなの場所」に引きつけてしまうのではなく、「誰のものでもない場所」として知覚するには、知覚する人の身体にそれを許容する感覚が必要なんじゃないか、とか。
(3)
その「誰のものでもない場所」を人間が知覚するために、感覚や身体を変容させるのが、アートの役割かもしれないなぁ、と思いはじめました。もしかしたら、世の中からアートの役割が希薄になっていることと、「誰のものでもない場所」が、有権者や納税者や消費者というラベルが貼られた「みんなの場所」に塗り替えられていることは、相互に連鎖しているんじゃないか、とか。

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