6.03.2010

想像力と共感力の問題

たびたび「イル・コモンズのふた。」を読ませていただいて、その社会を見るアーティストとしての眼差しに強く打たれることがあります。今回の普天間基地の問題で、このエントリーの中に、映像が挿入されていました。
思い出した2004年の私の経験。
シアトルの近郊に一年間滞在していたんでですが、7月4日のアメリカの独立記念日は、あちこちでお祭りがあります。市街地でも郊外でも、何かお祭りをやっている。その前日、ある友人は「明日はとても楽しいよ。空軍の最新の戦闘機がすごいスピードでシアトルの上空を飛ぶから、見に行ってごらん」と言いました。また別の友人は「明日はどこに行っても大騒ぎだ。俺は好きじゃない。まったくクレイジーだ」と言っていました。
翌日、私はお祭りを楽しむつもりではなく、ただ図書館にビデオか何かを返しに行くためにシアトルの都心部にバスで行ったんですが、ちょうどその時間帯に、最新の戦闘機の飛行ショーがあって、高層ビルの上空の低いところを何度も行ったり来たりしました。
その轟音と、そのスピードは「恐い」という言葉で表せるものではなかったです。私は足が震えて、体が縮み、涙がこみあげてきて、ビルの影に隠れては走り、また隠れては走り、という状態でした。ところが、シアトルの街を歩く多くの人は、戦闘機が頭上を通過する時に、大声で歓声を上げて手を挙げて興奮している様子でした。
私は、アメリカもアメリカ人も、好きなところはたくさんありますが、その瞬間に「この人たちは、何かがおかしい」と思いました。それは、和平維持や防衛についての考え方が間違っている、ということではなくて、人間の生理的な機能として、その爆音やスピードを恐怖と感じないことは、何かおかしいと思ったんです。もちろん先に書いたように、アメリカ人全員が楽しんでいるわけじゃないですが。
私がそのとき、戦闘機が飛ぶ空の下で、その爆音とスピードから想像したのは、当時、アフガニスタンやイラクでもこうした爆音があって、現実に命を狙われたり奪われたりする人がいる、ということでした。で、いま想像するのは、沖縄でも、ずっとずっと恐怖に晒されてきたし、これからも晒される可能性がある、ということです。それは、軍事的な防衛や抑止力といった問題というよりも(もちろんそれも大事な問題ではあるけれども)、その恐怖に晒されながらの生活を強要するのは、社会的な虐待や拷問に、私たちは荷担していると言ってもいい。
もし、シアトルでの戦闘機の飛行ショーを根拠に「アメリカ人の生理的な機能はおかしい」と言うとしたら、私を含めて日本人は正常なのか、というと、やっぱりおかしいと思う。なぜなら、そうした恐怖に晒されている沖縄の人たちの恐怖や痛みを想像せずに無関心でい続けることも、あまりにも想像力や共感力が欠けている、と言わなければならないし、個々の人間だけじゃなくて、社会全体の想像力や共感力が失われていると思うんです。

0 件のコメント:

archive