私としては、すごく楽しかったです。「私としては」という書き方をしたのは、この企画を楽しいとは思わない人も、結構いるだろうと思ったからです。そして、楽しいと思う人がいれば楽しくないと思う人もいる、ということは、ごく当たり前のことです。
ときどき手塚が出演するダンスの公演について書いてもらったりする、美学が専門の研究者の木村覚さんのブログを読ませていただきました。恐縮ですが、勝手ながら引用させていただきます。
どうして「自分の人生」「自分の好きなもの」に固執するのだろう。どうして自己批評性に乏しいのだろう。社会との接点をもっと見出そうとしないのだろう。あるいはどうしてあまり自己批評せずに自分のダンスは社会的価値があると思ってしまうのだろう(助成金とかなくなれば、前進するのかな)。誰かがそうした自家中毒からイチヌケして、社会が求めているダンスを踊り出したら、この膠着状態はあっという間に解消されてしまうのではないだろうか、なんて夢見ながら東横線。私は木村さんとは面識もあって、先日も挨拶したし、敬意も持っています。その上で、木村さんが上記のように書かれたことを、機会があればご本人とも話してみたいなぁと思ったりしています。
(中略)
いまダンスで批評(家)を名のるひとたちは、ほとんどたこつぼ的な観賞の仕方をとっていて自分の好きなものしか見なくなっているし、あえて自分が疑問に思うものに「疑問に思う」と公言したりしない。
たぶん、木村さんが書かれたことに同意される方も多いと思うし、「批評(家)を名のるひとたち」に限らず、ダンサー、制作者、愛好家で「疑問に思う」ということを公言しない人も多いと思うんです(つぶやく人は多いかもしれないけど)。私は、公言してほしいです。もちろん、公言の仕方には、それを読む人への信頼や配慮が必要だと思いますが、嫌われたくないから公言しないのは、健全な社会じゃないと思うので。そういう意味で、私は木村さんが疑問に思うことを公言したことには、改めて敬意を持ちます。
私は、手塚夏子のパートナーとしてではなく、またWe danceの主催者でもなく、We danceの企画の一部(「試行と交換」の記録)に参加した一人として、木村さんの意見を謙虚に受け止めつつ、木村さんに問いたくなりました。
一つ目は、「社会が求めているダンス」とは何なのか、ということ。二つ目は、「自分の人生」「自分の好きなもの」に徹底的に固執することが、世の中に繋がる可能性もあるんじゃないか(たしかに、そこには自己批評性は不可欠だとは思うけど)、ということ。三つ目は、「社会が求めていないダンス」を作り続けているダンスの作家がいることが、社会にとって役割を持つこともあるんじゃないか、ということ。
こうした問いのすべてで、「ダンス」を「アート」に置き換えられると思うし、私も当事者として、問いに対する答えを探し続けています。
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