2.17.2010

同人的/社会的、それと助成の問題

引き続き、木村さんのブログには厳しい批評が続いていて、なるほどなるほどと思いながら読みました。こうして、個別のブログで考え方の違いを一方向的に表明しているよりも、別の方法で、より多くの人も参加できる対話の場があった方が健全だとは思うんですが、今のところ、その対話の場がないので、とりあえず自分のブログに書くしかないか・・・(私のブログはコメント可能ですので、何かご意見があれば、どなたでも、ぜひ投稿してください)。
木村さんの前のエントリーで、「同人」と「社会」は反意語のように読めたんですが、「同人/社会」が意味するところが分からないんです。木村さんが評価する作家・作品は、同人的ではなく社会的だとしたら、その境界線、あるいはベクトルの違いは何だろう。
「マニアックかポピュラーか」というわけでもないようだし、社会的なメッセージが含まれているから社会的で、個人的な自己愛しか感じない個人の集合は同人的、ということかな。でも「社会が求めるダンス」というのと、「社会的なメッセージのあるダンス」は違うと思うし、表層では社会的メッセージを発していても(例えば反戦を訴えていても)、自己批評性の薄い(例えば反戦を訴える自分に陶酔する)作家・作品もいますよね。
いま、SNSのような技術で、社会全体は同人の集積でしかない、という見方もできると思うんですよ。個人の「つぶやき」が「つぶやき」を招いて、そこに同人が生まれて、無数の同人の集積が社会を形成しているんじゃないかと。そういう意味では木村さんが評価する作家・作品にしても、同人的だという見方もあり得るんじゃないかなぁ。
それと、批評の矛先を「助成」という制度に向けているところが、よく分からないです。作家・作品の同人的/社会的であることと、助成を受けていることに、何か因果関係や相関関係はあるのか。助成がなければ、作家や作品に自己批評性が生まれるのかも、分からないです。
基本的に助成制度は、事業収入だけでは成立しない企画を支援するために用意されています。助成を受けずに行う企画は、助成を受けるよりも経済的なリスクが高いわけですから、より多くの事業収入を獲得できる方向に製作のエネルギーを注ぐことになります。よって多くの観客に見てもらうための努力も生まれます。それはそれで必要だとも思います。でも、それが木村さんの求める自己批評性に繋がるのか、私には分からないです。
分からないことだらけですが、多くの人でその問いを共有し、当事者として考えたいです。少なくとも私は、当事者としての自覚を持ちたいです。

-----------------
sent from W-ZERO3

0 件のコメント:

archive