2.02.2010

問いを共有するための「試行と交換」

東大の公開講座「市民社会再生」の初年度の講義で、たしか佐藤健二先生が「問いを共有することが柔軟で強固な『共』を生み出す」というようなことを言われたような記憶があります。
今回、手塚夏子がオーガナイズしたワークショップ「試行と交換」は、まさに問いの共有だったような気がします。
劇作家・演出家の岡田利規さんは、演劇作品の中で役者が魅力的であるために、意図的に「逡巡する(迷う)」システムをどう作るか、という試行を繰り広げました。美術家の高嶋晋一さんは、一見、同じ動作を指示する複数の言葉(例えば「ドアをあける」と「ドアをひらく」)が、実際にはどのような差異を生んでいるのかを実験しました。ミュージシャンの宇波拓さんは、実際に自分がやったライブパフォーマンスで、聴衆と対面して1時間泣き続けるという「演奏」を、試しに参加者全員で30分、暗闇の中で「演奏」してみました。
手塚夏子は、こうした実践を何かの具体的な作品のためにやるのではなく、もちろん、ワークショップの参加者のためのものでもなく、ただ「自分の畑を耕すためにやる」と言っていました。誰に頼まれるわけでもなく、何の種を蒔くのかも決めていないのに、ただ耕すのが楽しいからとにかく耕す。耕していれば、そこに風が吹いたり、鳥が糞をしたりして、偶然、何かの種が落ちれば、勝手に生えたり育ったりするんじゃないか、と言っていました。
それが「アート」かどうかは、この際どうでもいいような奇妙な行為で、まだ世の中では言葉になっていない、目に見えない、耳で聞こえない「何か」を捉えようとするものでした。そんなことで多くの大人がもがいたりあがいたりするのは、これほどバカバカしいことはなく、これほど尊いこともない、と思いました。奇妙な民族の奇妙な儀式に立ち会っているようでもあり、映画「未知との遭遇」でUFOが着陸する山に人々が向かう様子を見るようでもありました。
上手く言えませんが、佐藤健二先生が言われた「問いを共有する」ということは、「答えを共有する」ことよりも、世の中にとって大事なんじゃないかと思います。今回の試行と交換は、とても豊かな問いの共有でした。そして不思議なことに、参加した個々のアーティストの問いには、なぜかつながりがあって、誰かの問いが別の誰かの問いを生み、答えに近づいたり遠ざかったりしていました。
これはきっと、市民社会の再生につながっていると思いました。

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