今回、私はフォーラムの前説と、フォーラムの中で1度発言させていただきましたが、基本的には意見を聞かせていただきました。全体の印象として、多種多様な立場から、多種多様な意見が出されたことを嬉しく思いました。まとまりがなかったという印象を持たれる方も多かったかもしれませんが、私は、まとまりがあるよりも、多様であることの方が重要だと思いました。
ただ、気にかかったのは、発言の多くが批評的な言説だったことでした。フォーラムのサブタイトルに「われわれ」という言葉を使っていましたが、その「われわれ」とは誰なのかが曖昧だ、という意見がありました。私は、「われわれ」とは、主催者のアートNPOリンクだけではなく、その場にいる文字通りの「われわれ」であり、このテーマに関心のある「われわれ」だと思っています。
が、言説の多くが、「われわれ」から距離を置いたところにいる人が、「われわれ」を批評するというスタイルでした。例えば「どうして・・・・というような意見がでてこないのか」という言説がある場合、同じ内容にしても、「私は・・・・だと考えている」という言い方もできるはずだと思いました。なのに、「私はこう考える」ではなく「誰もこうは考えないのか」という言い方になってしまうのは、なぜなんだろうか?と思いました。
もちろん、そうした批評的な発言が議論を活性化させることもあり、昨日の中ではアサヒビール芸術文化財団の加藤さんや、skypeでニューヨークから参加してくれたJapan Societyの塩谷さんの発言は、言ってほしいタイミングで批評性のある言説を投げかけてくれました。大事なことは、そこからの自分を当事者とした発言ではないかと思いました。
一つには、ネット中継とtwitterというツールも要因があったのかもしれないなぁと思いました。とても便利な双方向のコミュニケーションツールには違いないんですが、PCのディスプレイを見てスピーカーやヘッドフォンから流れる音を聞いて、それについて考えることをキーボードで入力する、ということは、参加しているには違いないんですが、オンラインの向こう側の当事者にはなりにくい。会場にいる参加者もtwitter上の言説に触れると、自分の身を当事者から距離を持つ立場に置きたくなるかもしれない。
思った以上に身体性や同一空間にいることが当事者性の度合いを左右するなぁということの発見でもあり、ある意味では、現代における市民社会のあり方の問題でもあるような気もしました。
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