12.03.2008

顔と顔コラム (6) 古典落語における登場人物と社会

(「顔と顔カフェ」の詳細→http://natsukote-info.blogspot.com
突然ですが、私は落語も好きなんです。古典落語の登場人物は、職業や身分といった社会的な立場だとか、性格や特徴の典型によって、名前が付けられています。熊さん、八つぁん、ご隠居さん、おかみさん、与太郎、若旦那、などなど。いろんな話にこうした登場人物が出てきて、物語は違うけど、おおむね、どの登場人物がどんな失敗を犯してどんな形でオチがつく、ということは見えている。見えているんだけれども、何度聞いても笑える話になっているわけです。
そして落語の登場人物には、みんな欠点があります。熊さん八つぁんは粗忽だし、ご隠居さんは説教をタレるし、おかみさんはいつも愚痴を言うし、与太郎はマヌケだし、若旦那は世の中を知らないし・・・そうした欠点を、私たちは笑っています。しかし、ただ登場人物の欠点を明らかにするだけでは、オチがつかないわけで、物語の状況や登場人物の関係性によって、ある人の欠点が強みになったり、逆に長所が欠点になったりする。その逆転こそが、落語が芸術としての価値を持つ一つの要素だと、私は思います。
落語の中でも、私は「与太郎もの」や「粗忽もの」の噺が大好きで、与太郎はつくづくマヌケでよかったなぁとか、熊さんはとことん粗忽だから好きだなぁと、思うんです。それは、私にも与太郎や熊さんのような欠点を抱えていて、その共感があるからですが、それ以上に、こうした欠点を抱えている人間が、欠点を抱えたまま社会と関わっていることや、そこでのトラブルや問題を笑えたり、相対化できたり、すったもんだする社会のあり方が、とても魅力的だと思うんです。
いまの世の中は、例えば落語に登場する与太郎のような人間は、もしかしたら単なる負け組か、排除の対象か、支援や保護の対象なのかもしれません。でも、落語の世界だと、与太郎は与太郎で社会の一員として、ご隠居さんとも熊さんとも、対等な立場で役割を果たしている。どうしたら、そういう関係になれるのかなぁと、ときどき素朴に考えたりします。

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