11.08.2008

言葉を飛び越える身体

公開講座「市民社会再生」で、劇作家・演出家の野田秀樹さんと、東大の国文学の渡部泰明先生のお話を聞きました。
お二人は、ともに東大の在学中に劇団「夢の遊眠社」を立ち上げた仲間で、しかも同じ高校の先輩後輩関係でもあるということもあって、対談形式の講義となったんですが、渡部先生は、「第一線で活躍している現代演劇の演出家が、学生劇団だった頃の昔話を話してくれないよ」とおっしゃっていたんですが、講義が始まると、野田さんの高校時代まで遡って、いろんなエピソードを聞くことができました。
遊眠社の立ち上げ当初は、芝居の公演を打つことは劇団の目的ではなく、「人間はいかにして歩くのか」「動くということと精神とはどのような関係にあるのか」といったことを探る、いわば目的のない身体の実験をやっていたという野田さん。それが、人気が高まるにつれて、作品の稽古をして公演を打ち、大量消費の波に呑まれるようになり、劇団を解散してロンドンに留学した、という話でした。
ロンドンで様々なワークショップを経験した野田さんは、帰国後、いろいろな俳優と一緒に作品を作るのに、劇団の頃のような共通言語がない。そのために、身体を使ったワークショップを作品の稽古の前にするようになったそうです。
前回の田中泯さんの話からも、共同体における「身体」のあり方について考えさせられたんですが、野田さんの話を聞いて、また考えを展開できるような気がしました。
情報伝達の手段としての言葉とは、不確かさを伴うもので、その不確かさをクリアにするために身体による情報伝達手段が必要なんじゃないか。あるいは、言葉の不確かさを飛び越えて共通理解に至ったり、それでも理解できないという感触を獲得するのも、身体の役割なんじゃないか、と思いました。
渡部先生が、日本の和歌にも、野田秀樹の作品にも、様々な言葉遊びがあることを指摘されました。読み方が同じで意味の違う2つの言葉が出会って、そこに新たな世界が出現するのが面白い、と。まったくそうだよなぁと思うんです。
ただ、私が野田さんの作品に笑ったり泣いたりできるのは、私の目の前に俳優たちの身体があり、舞台上の俳優たちもお互いの身体があることで、意味や論理を一緒に飛躍することができるんじゃないかと。
一方、優れた和歌に、どれほど巧みな言葉遊びがあっても、私が野田作品ほどの感動を覚えないとしたら、それは、作者と身体を共有できていないからなんじゃないか。逆に言えば、和歌を楽しむということは、言葉を楽しむということは、身体を共有することなんじゃないかと思いました。
私が生まれて初めてナマのお芝居を見たのが、京都・南座での夢の遊眠社の公演、贋作「桜の森の満開の下」。それが20年前だということに気がついて、ちょっと驚きました。

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