11.07.2008

共同体のメディアとしての身体

先月、藤野囃子保存会の先輩から借りたDVDには、保存会の長老から、ひょっとこのお面をつけて踊るお囃子の演目の、振り付けを教わっている記録映像が収められています。
ひょっとこの振りには、鍬で土を掘り起こしたり、井戸から水を汲んだり、倉の壁に土を塗ったりする仕草が、マイム的に表現されています。それを教わっている保存会の若いメンバーは、おそらく鍬も持ったこともない、井戸水を汲んだこともない、壁土を塗ったこともない。足が思うように動かない長老は、自らダンボール紙とガムテープで作った鍬のようなもの、コテのようなものを使って、ベッドに腰掛けながら「ほら、こうやって使うもんなんだよ」と教えていました。
地域の共同体で家を造るとか、共有の井戸があるとか、一緒に農作業をするといった時代に、お囃子が生まれ、これまで受け継がれてきたわけです。が、家づくりは住宅業者に、井戸は水道に、畑はアスファルトに変わってしまった現在において、お囃子は、実生活と離れて、過去の生活スタイルの記憶や記録としての意味を持っています。
それと同時に、その地域ならではの「身体から身体に情報を伝達する」という行為が、急激に地域から失われていく中で、踊りを通して身体の情報伝達を維持しているんじゃないかと。それは、共同体を維持するためでもあるんじゃないかと思ったんです。
つまり、地域から、お囃子や盆踊りが消えるというのは、身体という共同体のメディアを失うということでもあるんじゃないか、という気がしました。

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