11.06.2008

「身体」と「市民社会」

先週の公開講座「市民社会再生」での田中泯さんの話と、週末、藤野であったことをきっかけに、「身体」と「市民社会」の関わりについて、いろいろ考えています。
最近、藤野に引っ越してきた息子の保育園つながりの家族が、新しく家を建てている最中なんですが、たまたま先週の連休、その家の外壁の壁塗りを、保育園仲間のお母さんや子どもたちで一緒に塗ろうという話になりました。面白そうなので、私たち家族3人も手伝いに行ったんです。
壁塗りをやってみると、壁土をコテにのせた状態の手首の角度とか、コテを下から上に動かすのとか、ムラがでないような手加減とか、案外、難しい。先にやっている人の手や腕の動きを見たり、アドバイスをもらったりして、なんとかできるようになる。そして、自分のあとにやる人に、動きやアドバイスをする。また、そういう作業をしながら、みんなでおしゃべりしたりするのも楽しかったりするわけです。
これは、壁塗りという作業だけでなく、一緒に作業する人のコミュニケーションを醸成していることでもあるんだなぁと思ったわけですが、ふと、もしかしたら、お互いの手や腕の動きを伝えるという、身体による情報伝達が、コミュニケーションの醸成にとって、大きな効果になっているんじゃないかと思ったのです。
例えば、3つの集団があるとします。それぞれ情報伝達の手段として、(1)言葉(書き言葉や話し言葉)だけ、(2)身体(表情や身振りや動作)だけ、(3)言葉と身体、という集団に分けたとき、どの集団が持続可能なコミュニティかを考えてみると、(3)がもっとも持続可能であることには間違いないような気はしますが、(1)と(2)では、どちらが持続するでしょうか。もしかしたら、(1)よりも(2)の方が、コミュニティは続くんじゃないか、と。
農村と都市における、一定範囲のコミュニティでの情報伝達の量や質について調べられるとしたら、農村における言葉と身体のバランスに比べて、都市では、圧倒的に、言葉が身体を上回るんじゃないかと思うんです。そうした情報伝達における言葉と身体のバランスが、コミュニティの持続可能性に、ひいては市民社会のあり方に、どのような影響を与えるのか。
おぼろげながら、「市民社会」と「身体」という切り口が見えてきたような気がしています。でも、こんなことは、とっくの昔に誰かが本に書いてたりするのかもね。

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