10.09.2008

佐野川の地芝居

現在の藤野町内で、かつて地芝居が盛んだった佐野川という地域には、現存する2つの神社に神楽殿舞台があります。1845年と1864年に建造された神社で、このうちの一つは私も行ったことがあります。普段は本殿に向き合う山門として、中央は通路になっている部分に厚い板を渡して舞台として使っていたようで、楽屋や太夫棚も設置されて花道も仮設できるそうです。
「創建当時、両神社の氏子数は五十戸内外と推定され、このように小さな氏子集団がこれ程の大建築事業をなし遂げたということは、篤い敬神の心があったことは勿論であったと思われるが、それにも増して歌舞伎に対する熱の入れようが伺えるものである」(ふじ乃町の芸能)
この地域の地芝居は、こうして神社の祭礼に奉納されてきたのですが、大正期、本職の歌舞伎役者が妻女の故郷である佐野川に定住することになって以来、隆盛を誇るようになったそうです。その役者は芸名を尾上男女蔵と称し、農作業の手伝いの傍らで地元の人々に芝居を教えたそうですが、この尾上男女蔵が面白い。
「名人気質で金を持つと酒を飲み、人に施すということで貧乏は脱出できなかった。芸の方は流石本職としての修行と芸達者が者を言い、地芝居とは思えぬ堂々たるもので、特に十八番の累は若い女達には面を上げて見られない程凄さと迫力があったと今に伝えられている」
「大正四年頃から昭和四年頃までが男女蔵一座の全盛期で、近隣からも引張りだこで、地方興行も長い時には一ヶ月にも及んだ。しかし一座が二十人ほどにもなり、貰う金は僅かで、雨に降られると喰い込みがたち、金子元をしていた鈴木解氏に昔聞いたところによると一蚕(一回の養蚕の売上高)が飛んでしまったとのことである」
「昭和五年十一月、五十五才で男女蔵師は亡くなったが、死亡する数ヶ月前までの舞台は酒を一杯ひっかけて上ったと伝えられ、死を予知しながら舞台を踏んでいたわけで、演技は悽愴で迫力があり、芝居と共に人生を終わった人である」(前掲出書)
こういう、とてもローカルな場所で、ローカルな人しか知らないような、破天荒な伝説の芸人がいたということに、私はとても感動してしまうんです。それに、この文章を書いた人の熱い思いが伝わるようです。
「大正末期から昭和初期にかけての若い衆は、此の他にも若干芝居の稽古をした者があるとのことで、当時の男衆は酒宴の席などでは必ず芝居の台詞や所作が出る程で、現在のカラオケと同じように慰安の一つになっていた」
「終戦後、八幡神社奉納芝居の話が青年団鎌沢支部で持ち上がり、昔芝居を演じた鈴木解・小山九之介・相沢久一各氏の指導の下に上演をした。この芝居を最後に佐野川の地芝居は消滅した」(前掲出書)
その消滅から、おそらく半世紀くらいして、藤野村歌舞伎として復活したということでしょう。一時消滅していたとはいえ、先日の舞台を見ると、立派に受け継がれていると思います。また男女蔵のような破天荒な芸人が藤野に現れて、地芝居が盛り上げるといいなぁと思いました。

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