10.28.2008

向井山朋子の湯気

昨日、東京の門仲天井ホールで、向井山朋子さんの「ピアノ100% in 深川」と題したコンサートを聴きに行きました。
私は昨年、同じ会場で「夏の旅−シューベルトとまちの音」という向井山さんの作品の初演をビデオで撮影しました。そのときの演奏は、私にとって、まるで「事件に遭遇した」という印象でした。窓から東京の夜景が見えるホールでの、シューベルトの即興曲と、Simeon Ten Holtの「Canto Ostinato」と、向井山さんの即興と、ラップトップPCで編集した街のノイズのコラージュによる演奏。一年前のあのときの生々しい記憶は、まだ鮮明に残っています。
今回、私は客席で聴かせてもらいました。昨年、コラージュされていたSimeon Ten Holtの作品と、Claude Vivier「Shiraz」、そしてJ.S.Bachの「フランス組曲」という演目で、曲間は拍手なし、濃密な1時間のコンサート。
1曲目。延々とアルペジオが続き、その上にシグナルのような音が繰り返されながら少しずつ変化するHoltの作品。ピアノの周囲だけ明るくして、街の電飾の点滅や首都高速を走る車のヘッドライトが、少しだけ窓ガラスから差し込んだり反射するのを見ながら、穏やかな音の海に身を沈ませる感じ。叙情的なテーマが2回演奏されますが、その2回目が演奏された直後、突然、ピアノは歌うのを止めて沈黙します。
その沈黙を破る不協和音と荒々しいリズムで構成された2曲目のVivierの曲が始まって間もなく、私は、向井山さんの肩と首あたりから、湯気が立ち上がるのを見ました。最初、湯気?いやいや、眼鏡が汚れてるんだろうと思ったんですが、その後も立ち上がる湯気を見ました。湯気というか、煙かもしれない。汗をかく演奏家は多いですが、湯気や煙があがるピアニストは、私を見たのは初めて。
Vivierの曲で、向井山さんは何度もピアノの鍵盤を強く叩いたり、ペダルを微妙に踏んだり上げたりしていたんですが、鍵盤を叩く瞬間の音以上に、その音の行方をコントロールしているような気がしました。ピアノの弦、響板、ボディ全体、床、窓、空間・・・3次元に広がる音の波、それを耳で追いかける。そして肩と首からの湯気。
そして3曲目のBach。私もいろいろバッハを聴いたつもりだし、誰の演奏も、当たり前だけど唯一無二なわけですが、向井山さんのバッハは、なんだろう、向井山さんの身体から直接発しているんだろうな。楽譜を読んで、頭でイメージして、指を訓練して、鍵盤がハンマーを動かす、というものじゃない。「バッハ→私の身体→音、あとはお客さんが考えれば?以上!」みたいな感じ。ヒドい説明だなぁ。
たぶん、西洋近代音楽の形式美とか構築性をすっ飛ばした、生理的な演奏と言えばいいんでしょうか。それは聴く人にも生理で直接聴くことを要求しているような気がする。裸の作曲家とピアニスト。そこで裸になれない聴衆は、すごく居心地が悪いだろうなぁ。
ところで、向井山さんは、肩書きに「ピアニスト/アーティスト」と書いています。これは、インスタレーションやアートプロジェクトなどを手掛けていることを、ピアノの演奏活動と対等に価値を置いているということだと思うんです。が、もう一つは、ピアノの演奏においても、作曲家が創造した音の「再現」という役割を超えて、向井山朋子というアーティストが作曲家と対等にコラボレーションしている、という見方、いや、聴き方ができると思いました。
いやー、昨日は向井山さんの湯気にあたっちゃいました。来年、越後妻有アートトリエンナーレで発表される作品が、いまから楽しみです。

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