9.04.2008

パラリンピックという枠組み

昨日の夜、晩飯を食べながらNHKの「クローズアップ現代」を見ていました。テーマは、障害者スポーツのこと。
近年の障害者スポーツは、義足や車椅子などの器具の高度化もあって、競技そのものの高度化や、国によってはプロ化が進んでいるという話でした。イタリアではプロの車椅子バスケットボールのリーグがあって、人気もあるし、数多くのスポンサーもいるという話です。日本でも車椅子バスケットボールの大学選手権があるという話ですが、そこに選手として参加する学生の9割は、足にしょうがいがあるわけではなく、スポーツとして、カッコいいから車椅子バスケットボールをやっている、という話でした。
私は、ぼんやりと思ったんですが、近い将来にはパラリンピックという枠組みはなくなって、オリンピックの競技として車椅子や義足を使用する種目があってもいいんじゃないかと。あるいは逆に、パラリンピックの中に、車椅子や義足を使わない種目がある、というのでもいいし。健常者としょうがい者で分けなくても、例えばバットとグローブが必要な競技があるように、車椅子や義足が必要な競技が、種目として対等にあってもいいんじゃないか。それで国ごとにメダルの数を競うのであれば、その存在意義も、いまのオリンピックよりは、多少はあるような気がします。
アートの領域でも、「エイブル・アート」「アール・ブリュット」「アウトサイダー・アート」というカテゴリーがあります。私は、それぞれの言葉の定義や、その中での表現者の心身の状態はどうであれ、面白いものは面白いし、つまらないものはつまらないと思うことで、アートの価値や評価としては間違っていないと思うんです。
ただ、パラリンピックにしても、エイブル・アートなどにしても、そういう枠組みがないことには、しょうがい者がスポーツを楽しむことや、自由に表現することを、社会に理解してもらえないのだとしたら、そのために枠組みにはめるのは、仕方のないことかもしれません。
でも「しょうがい者なのに、一生懸命スポーツに取り組んでいて素晴らしい」とか、「まるで普通の人と同じように絵を描けるのに驚いた」とか、そういう見方や見せ方には、立ち止まって考えた方がいいと思うんです。それって「欧米人なのに箸を使えて素晴らしい」とか「日本人なのにナイフやフォークを使えて素晴らしい」いう見方と似ていませんかね。

-----------------
sent from W-ZERO3

0 件のコメント:

archive