8.29.2008

報道の知性

「あらたにす」という、日本経済新聞、朝日新聞、読売新聞の3紙のニュースを読み比べできるサイトがあって、そのサイトの8月22日付の「新聞案内人」というコラムに、大阪大学総長で哲学者の鷲田清一先生が「8月というこの月に」という文章を書かれていました。
その中で、今回のオリンピックの報道について書かれていて、深く頷いた部分を、少し紹介させてください。
オリンピックの理念というのは矛盾を含んでいる。国家間の競いではなくて、個人の競いであると謳いながら、選手個人を表彰するにあたってその帰属する国家の旗とともに顕彰する。ましてや、団体競技になれば自明のごとく国家単位で選手は構成され、国と国との争いになる。この矛盾はふだんは祭のオブラートに包まれているが、ときに国家の現体制への帰属を拒否する選手が現われて顕在化することがある。
(中略)
開会式の「演出」についての論議は、報道が「知性的」なものになるチャンスだったとおもう。が、それも「ほんもの/にせもの」といったすり切れた枠組みのなかでしか語られなかった。あの「演出」を問題にするなら、「オリンピック」というインターナショナルな「演出」、さらには「ニッポン」という演出についても語るべきだったのではないか。くりかえすが、「日本人」の「自然な」感情に添い寝するばかりで、それが孕む、だれでもちょっと考えれば思い浮かぶ矛盾のほうへはほとんど思考が向かなかった。「知性的」でなかったというのはそういうことだ。そしてその点で、このたびのオリンピック報道の構図は、戦時中に自国、自軍の戦況ばかり報道していたときのそれと基本的には異ならなかったようにおもう。
8月は「終戦記念」の月でもある。わたしたちは何に属しているのか。家族か、地域か、職場か、国家か、人類か。「帰属」というそのことで形成される「わたしたち」とはいったいだれか。「帰属」を棄てた(あるいは、棄てることを余儀なくされた)人びとにとって「わたしたち」とは何か。「連帯」とは何か。そういうことを考えさせる8月のはずではなかったのかと、穏やかでなかった8月の天候と対照的な紙面を見て、おもった。

さすがだなあ、鷲田先生。

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