熊本市現代美術館の館長だった南しま先生が企画に関わった、ハンセン病患者の作品を中心に構成された国際美術展「ATITUDE 2007」のお話が中心でした。
涙をこらえることができませんでした。何回も。
ここでは話の内容を細かく説明しませんが、講座の最後に、受講生からこのような質問がありました。
「今日のお話は、とても感動的でした。でも、この感動は、展示された作品に感動したというよりも、先生の語り口に感動した、というべきものかもしれません。その場合、作品や美術展の価値といったことについて、どのように思われますか」
というような内容だったと思います。
残念ながら、南しま先生の回答を思い出せないのですが、たぶん、その質問に私ならどう答えるのかを、考えていたからかもしれません。
私は、こう思います。たしかに、それは作品としての自立した価値があるとは言えないかもしれません。けれども、展示された「モノ」と、世の中との関係、あるいは私との関係において、新しい発見があって、その発見によって世の中の見方や私の生き方が変わるかもしれないし、そこに大きな価値が宿っているのではないか。
美術展でのカタログ、解説、キャプション、レイアウトは、その陳列された「モノ」と私との関係を見せてくれるための手段です。あくまでも手段ではありますが、その手段によって、その「モノ」と世の中や私との関係が、力や価値を持つかどうかを左右するわけです。
美術館とは、そのための装置ではないかということに、改めて気がつきました。同時に、装置として機能する美術館が、果たしてどれくらい存在しているのだろうか、ということも考えてしまいました。
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