4.26.2008

政治と経済の「ねじれ」と、文化

映画「民族の祭典」を観てもう一つ気がついたことは、1936年の当時は、オリンピックに企業スポンサーがついていないということです。スタジアムにも選手のユニホームにも、もちろん映像にも、企業や商品の名前が一切見られません。それは、現代のスポーツと、まったくといっていいくらい違う風景です。
ところで、北京オリンピックの聖火リレーは、今のような状況で世界各国を回る意味があるんだろうか、と思うと、きっと「スポンサーを降ります」と企業が言わない限り、やるんでしょうね。不謹慎な見方をすれば、何か衝突や事件が発生することの方が、スポンサーや広告代理店は喜ぶんじゃないか、と。
中国と西欧諸国や日本との国際世論の摩擦を見るときに、政治的には反発しているのに、経済的には反発したくないという、感情のねじれが見え隠れします。
ある面では、政治での反発がこれ以上強まらないように、グローバル経済が抑止しているとも思います。ですが、この政治面と経済面のねじれた感情は、互いのストレスを蓄積しているようにも見えます。かつての日本と西欧諸国との貿易摩擦も、いまの中国と同じような状況だったんじゃないかと想像できます。
この政治と経済によるストレスを克服するために、文化が果たすべき役割は大きいでしょう。それも、国のアイデンティティーを提示するだけの文化ではなく、多様性を受け入れ、対話を促すことが求められると思うのです。
おそらくダライ・ラマは、その手本を見せてくれているのでしょう。

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