4.13.2008

「いじめ」とフラクタル社会

先に引用したNewsweekの記事は、たまたまチベットの問題と映画「靖国」の問題が、同じ号で記事が組まれていたので買って読んだものですが、文化と政治の関わり方や、グローバリズムと文化の多様性について、この2つの問題に共通している要素が同時多発的に表面化したものなんじゃないかと思わせるものでした。
表現の自由や多様な文化の共生を維持するために、インターネットというメディアが果たす役割が大きいことは否定できない事実ですが、引用した記事を読んでも、ますます情報リテラシー(読み書き能力)は重要だと思いました。
情報を発信する人の数だけ、自由で多様な表現がある。無数の情報を自由に享受できる。と思いこんでいるけれども、実は、私たち自身が、目に見える圧力や無自覚な自己規制、誰かが発信した情報に自分の意見を委ねてしまう。また、無数にあるはずの情報から、他者によって切り取られたり、自ら限定した領域の情報しか入手していない。そういう状況の積み重ねが、ある議論の二極化を生む傾向にあると思います。
自分を考えても、チベット問題や映画「靖国」について、ネットで検索して、やっぱり自分と同じ方向性の主張のニュースやブログの方を選択して読んでいるんです。ブログやSNSでは、ある方向の主張に対するコメントの投稿は、同じ方向の主張であることが圧倒的に多い。異議を唱えるコメントがあると、炎上することもある。炎上すると、表現に対する恐怖が煙のように漂い、自己規制するでしょう。
この結果、オンライン上では異なる主義主張が交じり合わずに、特定の主義主張で閉ざされたコミュニティが形成されて、それぞれのコミュニティの中の主張が狂信されるようになると、オンラインではない現実社会でディスコミュニケーションや、暴力的な衝突が発生するんじゃないか。
これは、単純に図式化できる二極化ではなくて、多数の問題で生まれた二極化によって「敵の敵は味方」的な結合や離散が生まれたり、ねじれたりする。そのねじれを、意図的にコントロールしようとする人もいる。
つまりそれは、「いじめ」と同じ構造だと思うわけです。いま、日本の学校や職場や地域で起きていることが、日本の国会や六カ国協議や中東和平協議や世界各国でも起きている。「フラクタル」のようだ、と思いました。

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