10.20.2011

コミュニティアートと民俗芸能の共通点

“コミュニティアート”という言葉が使われるようになって、さほど私は違和感なくその言葉を受け入れてきたんですが、どうやら“コミュニティアート”には様々な先入観がつきまとっているらしいということにも気がつきました。一つは、プロフェッショナルによる“アート”と比較して芸術的な質が高くないもの、という先入観。もう一つは、コミュニティに対して何らかの効用や効果を期待するもの、という先入観のような気がします。
私はそうした先入観が正しいのか分からないし、コミュニティアートに主体的に関わっている人たちが、そうした先入観に沿って企図しているかどうかもよく分からないけれども、ある種の特徴ではあると思います。で、最近思うことは、“民俗芸能”にも同じ特徴が言えるなぁということです。能、歌舞伎、日本舞踊といった“伝統芸能”と分類されるものに対して、芸術的な質が高くないものという先入観があったり、地域の観光振興や過疎地の対策に効用や効果があることが期待されている、という側面が、おそらく民俗芸能にもあるでしょう。
他にも思いつく共通点は、ある意味で見放された場所にあるということ。コミュニティアートは山間の過疎地、シャッター商店街、空き室の多い団地で発生し、民俗芸能も山間の過疎地や高齢者が多くの割合を占める限界集落に残っている。それらは、端的に言えば高度資本主義に見放された場所だったりする。
もっとも重要なコミュニティアートと民俗芸能の共通点は、そこで行われる行為や生み出されるものが、特定個人の有名性ではなく、その地域住民の無名性によるものだということ。たしかに、コミュニティアートにはアーティストを名乗る人物が関わり、それを「作品」として提示しているかもしれないけれども、おそらく長い時間が経過すると、それが「誰かの作品」ではなく「そこにしかない営み」になっていることが、優れたコミュニティアートとして評価されるはずではないか。それこそ民俗芸能は、誰かが踊り始めたり、歌い始めたわけだけれども、作者が誰なのかは重要ではないわけで。
民俗芸能を見ていて、ときどき「これってコミュニティアートだなぁ」と思ったり、コミュニティアートを見ていて「これが100年続いたら立派な民俗芸能だなぁ」と思ったりすることがあります。

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