5.16.2011

民俗芸能と3.11以降|カラダというメディアにしか伝えられない

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昨日、横浜のSTスポットで、手塚夏子がオブザーバーを務めた「ヨコラボ」を見に行きました。開演前に手塚と昼ご飯を食べながら話した時に、彼女はヨコラボを通して「カラダは、震災以降も信頼できるメディアだと思った。それが確認できて、本当によかった」と言いました。
私はその言葉に、なるほど、と思いました。
震災による私自身の最も大きな変化は、テレビや新聞などのマスメディアを信頼できなくなったことで、ある種の嫌悪感さえ感じるようになりました。全くテレビや新聞を見ないわけではないものの、情報の内容以前に、媒体そのものに疑い深くなったというか。
「カラダは、震災以降も信頼できるメディアだ」という言葉に共感する理由は、この1年間に民俗芸能を観た経験も大きくて、何しろ数百年間、ものによっては千年もの時間を超えて、カラダは何かを伝え続けてきたメディアなのですから。ただし、もはや伝えるべき情報の意味や有効性が失われているものも多くあります。例えば、雨乞いのためにずっと踊られてきた芸能があっても、今の世の中では、その行為が水不足の解消には有効ではないわけで、だから伝える意味がない、という見方もあります。実際、そういう理由で姿を消した芸能も数多くあります。
でも、そのメディアが伝えるのは、かつてその土地に水不足があったときに、飢饉や疫病で死ぬ人がいて、痛みや悲しみがあって、それを忘れないように子孫に伝えよう、という切実な意思だと思うのです。それは、いま、テレビや新聞とも、古文書や絵巻物とも違う何かを伝えていると思うわけです。その情報が事実かどうか、科学的かどうか、客観的かどうか、といったことは問題ではなく、ただ「切実かどうか」ということが問題であり、今は、それが最も大事な状況だと思うのです。
私は、切実な意思は、カラダというメディアにしか伝えられないと思うのです。

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