9.22.2010

「無縁所」としての公園

このところ、網野善彦「無縁・公界・楽」(平凡社ライブラリー)を読んでいます。この本から学ぶことが、現在進行形で起きていることとリンクして、次から次へと思考が塗り替えられていく感じがします。欧米から輸入した「公共」という概念とは違うけれども、日本固有の公(おおやけ)を支えるシステムが中世に存在していたんだなぁと。
網野氏によると「無縁」という言葉は、例えば親子や夫婦といった家族関係、領主と家来といった主従関係、金の貸し主と借り主といった賃借関係など、さまざまな世俗界の「縁」から切れることを言うそうです。例えば駆け込み寺や縁切り寺といった「無縁所」には政治・行政の権力は及ばず、その場所の自治が公認されていたそうです。
それはたぶん統治する権力者にとっても、特定の場所に、自治と引き替えにセーフティーネットの役割を与え、逆に社会を引き締める機能もあったんだと思います。が、いずれにしても、そうした世俗の関係から切り離された「無縁所」から、芸能(狭い意味での芸能だけではなく、高度な技術を持つ職人も芸能民と言われていたらしい)が生まれたといいます。
これ、いまの社会では公園こそが無縁所なんだなぁ、と思いました。
大人の支配から免れる子どもたちの場所。家族がいない、家に帰れない人々が集まる場所。酔っぱらいやカップルがいる場所。ダンスやスケボーの練習場所。まさに、現代の無縁所であり、そのような場所を必要としているからこそ自然発生的に生まれていると思います。
そこは、単に「縁」を失った人が寄り集まるだけの場所ではなく、「新しい縁」を再生する場所だと思うのです。従来の家族での関係や会社での関係には適合できない人が、新しい縁、家族や会社だけじゃない「縁」に巡り会う場所、その可能性を知る場所だと思うのです。
それを、権力にコントロールされてはならない。自治する権利が失われるから。自治する権利が奪われた場所には、公(おおやけ)は存在できない。支配されること、管理されることに無自覚で、共生や共存に無責任なヒトしかいなくなる(ヒト以外の動物は、無自覚だとしても、ちゃんと共生している)。
そんなことを、網野氏の本を読み、そして宮下公園の状況を知って、考えています。

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