12.08.2009

なぜ「成果」について語らなければならないのか。

昨日のフォーラムに参加していただいた皆さま、本当にありがとうございました。予想をはるかに上回る参加者(おそらく150人くらい)と、熱気に包まれた会議室での途切れない意見に、圧倒されました。
昨日、私が冒頭で論点整理をしたPowerPointは、これです。
上の埋め込み画面だとレイアウトが崩れて見えない文字があったりするので、大きい画面で見たい方はここで公開しておきます
あと、時間の都合で言えなかったことを、私なりに改めて実感したことを、以下に書きます。
芸術活動に携わる多くの人々は、何かを犠牲にして芸術活動をしています。例えば、個人の貯蓄を切り崩す、借金する、安定収入を得る仕事に就けない、結婚できない、出産できない・・・あと、芸術活動をしているというと周囲から「好きなことやってていいですね」と言われたりして、ほんの少しプライドに傷が付いたりとか。そのプライドの犠牲は、日本で芸術活動をする大きな「わだかまり」だと思います。
そうした犠牲と引き替えに、アーティストや制作者は、作品を作ったり、演奏したり、演じたり、踊ったり、またそういう場を作ったりしている。「プライドをかけて」やっているわけです。
今回の事業仕分けのワーキンググループのコメントは、そうしたプライドを傷つけられるようなニュアンスを感じた人が少なくないと思います。私は、直接的に芸術活動をしているわけではないですが、政府が設けた公の発言という意味で、かなりプライドを刺激されました。
だから、少なくとも私は、芸術活動に携わる人間のプライドを理解し、共感し、それを代弁する人になりたいと、改めて強く思いました。
ですが、しかし。
アーティストや制作者、もちろん私自身のプライドを声に出しても、ましてや、芸術活動をするために払っている犠牲やわだかまりをどれだけ大声で叫んでも、芸術活動に関わらない人には、「圧倒的に通じない」ということも事実だということを認めないわけにはいきません。叫べば叫ぶほど、より一層プライドに傷がつくだけかもしれません。
厄介なことは「犠牲を払っている」ということを叫べば叫ぶほど、そんな犠牲をお願いした覚えはない、という意見や、可哀相だから支援してあげましょう、という意見を助長させてしまうことです。それもまたプライドを傷つけるわけです。
要するに、自らのロジックとボキャブラリーを変えない限り、同じ繰り返しになるわけです。
だからこそ、「成果」をどう語るのかが、重要なんだと思いました。「私たちは、助成を受けなければ事業ができない、運営ができないんです」という言い方は、結局、そんなことお願いしてません、または、可哀相だから赤字を補填してあげましょう、という結論を自ら招き、自らの立場を低く置いてしまっているわけです。それを、「これだけの成果があるから、(助成ではなく)投資が必要なんです」という言い方に転換し、そのロジックに必要なボキャブラリーを増やさなければならないわけです。
そのロジックの転換とボキャブラリーの充実の必要性が分かった、ということが、昨日のフォーラムの成果だったと思います。それと、多種多様な参加者が一堂に会して意見を出し合えたこと、その呼びかけに、丸岡さんという、私と同じ時期にアメリカで在外派遣研修を受けた仲間ととともに行動できたこと、在外派遣研修の先輩や後輩、数多くの仲間が足を運んでくれたり賛意を現してくれたことも、まぎれもなく、「芸術家の国際交流」の成果だったと思いました。
引き続き、考えます。しつこく、とことん。

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