7.14.2009

コミュニティとしての記憶の媒介

先週の土曜日の夜は、お囃子の稽古だったんですが、いつもと違って、普段は稽古の顔を出さない大先輩のおじいさんが来てくれました。
おじいさんは、保存会の中でも踊りを得意とする人で、この日は、長い間演じられていなかった「段物」(ストーリー展開のあるお囃子の演目)を、おじいさんと一緒に過去のビデオを見ながら、踊りの振りや演奏の流れを確認しました。
みんなで見たビデオというのは、20年ほど前に撮影したもので、当時のメンバーで、手本となるような映像記録を残そうと、一人ずつ固定カメラの前で踊っている映像でした。
テレビ画面にひょっとこのお面を付けた人が出てきて踊り始めると、大人のメンバーは、すぐさま「あ、これは○○さんだ」と分かる。おかめの面を付けた人が出てきても、すぐ誰だか分かる。既に他界された人や、今は現役ではなくなった人の踊りを見ても、誰だか分かる。何人も出てきて、みんな衣装を着て面を付けていて、一人ずつしか映らないから背丈も分からない。誰が誰だか判別するのは、踊りの微妙な所作しかないけど、分かるんです。しかも、画面に映らないけど後ろに流れている笛や太鼓や鉦の音を聴いて、「こりゃ△△の笛だな」というのも、分かるんです。
「○○さんの踊りは、足で踊ってんだよ。上半身は、ただ足に乗っかってるだけで、見事なもんだよ」とか「△△の笛は、ここんところの節回しで、ピヒャーっとは音を伸ばさないんだよな」とか「□□さんは、おかめをやっててもガニ股でさぁ。でも、何かいいんだよな」とか、口々に言うわけです。
文化は、コミュニティとしての記憶の媒介だということが、とてもよく分かりました。

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