10.17.2010

中世の日本に「アーツカウンシル的なもの」を見た

最近、中世の芸能史に興味があって、山川出版社の日本史リブレット「寺社と芸能の中世」(安田次郎著)という本を読んでいたら、面白い記述がありました。
(引用者注;奈良・春日社の若宮社の祭礼、通称おん祭りの)最初からのことといえば、田楽法師十余人に興福寺の憎が新調の装束一式を下げ渡す田楽頭の制度、役割も当初からあったようだ。おん祭り最初の年である1136(保延2)年に「田楽二村」の装束を調達しだのは「僧正御房」すなわち興福寺別当(長官)の玄覚と「権別当御房」の隆覚であった。1150年に「白川田楽」に装束を下げ渡しだのは「新相房疑已講」、「新座田楽」に下げ渡したのは「覚乗房疑已講」であった。
 このように、おん祭りでは毎年二人の興福寺僧が選ばれて二座の田楽法師に装束を下げ渡す役割をおったが、さきにみたように、田楽の装束は贅をつくした豪華絢爛、したがって高価なものになっていたので、田楽頭になると、その経済的な負担はたいへん重いものであった。僧たちが独力で田楽頭をつとめることはほとんどの場合不可能で、彼らは縁者や知人に援助を要請して歩いた。当時、このような援助を「助成」〈じょじょう〉とか「訪」〈とぶらい〉などと称し、要請に応えて応分の負担をすることがならいとなっていたようである。
(中略)
 田楽装束の華美に関しては、実は興福寺自身が、たびたび禁令をだしている。平氏によって伽藍を丸焼きにされた興福寺の再建をリードしたのは摂関家出身の別当信円であるが、信円は別当就任にあたって、八カ条の「寺辺新制」(法令)をだした(『平安遺文』八—三九六八)。その第七条は、「若宵祭田楽装束花美」を禁止するものであった。同様の法令はこののち、鎌倉時代には建久(1190〜99)・嘉禄(1225〜27)・弘長(1261〜64)弘安年間(1278〜88)などに、室町時代には応永(1394〜1428)寛正年間(1460〜66)などにだされた。繰り返し同趣旨の法令がだされるということは、それが一向に守られない、人びとがそれを無視したということでもある。中世の人びとは、田楽装束は誰がなんといおうと豪華絢爛でなければならないと考えていたのであろう。
 それだけでなく、寛正年間の法令のように、「但し分顕(分限)の鉢に於いては制の限りに非ず」(寛正四年十月十八日条)という文言、つまり「裕福な者は、(贅沢な装束を準備しても)かまわない」とい意味合いのことか法文の最後のほうにときに盛り込まれているのをみると、興福寺当局にもどれだけ本気で贅沢を禁止する気があったのかあやしいといわねばならない。
(20〜22頁「田楽・邪気払いの呪法」)
私が面白いと思ったのは、中世の寺社に「助成」(「じょじょう」と読む)があったことです。さらには、国家権力とは別の寺社の僧侶が経済的援助を人々(縁者や知人)から集めて、それで装束をつくり、芸能者(田楽法師)に与えた、という仕組みの部分。つまりそれは、現在の日本の助成(じょせい)の仕組みが、多くの場合、政府が、国民の税金から予算を配分して、それを芸術団体に交付するというのとは違っていて、むしろ、海外諸国に見られるアーツカウンシルのように、政府から「腕の長さほどの距離のある」機関が人々から金を集めている。政権、寺社、芸能者という三者の関係と、政府、アーツカウンシル、アーティストの三者の関係を重ねることができると思うんです。
もうひとつ面白いのは、たびたび寺社が、田楽装束が華美になることを禁令を出したけれども、人々がそれを無視するほど、「田楽装束は誰がなんといおうと豪華絢爛でなければならないと考えていた」という部分。田楽装束が華美になることを人々が非難するのではなく、寺社が(おそらく経済的負担を理由に)禁じ、それでも人々は田楽に贅を求め、寺社も抑えることができなかったというところです。
ふーん・・・「アーツカウンシル的なもの」は中世の日本にもあったのですね。

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