3.05.2010

助成金を受け取る責任

Arts Managers' Netというネットワークでお世話になったり、主にコンテンポラリーダンスのプロデューサー/キュレーターの後藤美紀子さんが教えてくれたんですが、ミュージシャンの大友良英さんが、ブログで興味深いことを書いていらっしゃいます。以下、引用させてもらいますが、この話はどうやら、大友さんが「シネアスト・オーガニゼーション・大阪エキシビション(CO2)」という映画の上映展で「大阪市長賞」の審査委員を務められた際に、「グランプリに該当する作品なし」という結論を出したことに話が始まっています。
助成金を受ける、助成金を受けとって作品をつくる。文化に行政の予算を使う。
もちろん悪いことではありません。映画に行政の予算を使うことも、否定はしません。
それらは、過去に様々な人たちがなんらかの努力をし勝ち取ってきた権利でもあるわけで、事実それによって素晴らしい作品も生まれているわけですから。それだけに、それを受け取る以上は、それがたとえ50万であろうと厳しい責任が生じる・・・わたし個人はそういうふうに税金を受け取るということを考えています。
映画であれ、道路を作る仕事であれ、医療であれ、その意味では、まったく同じだと思っています。ただし、道路や医療と違って、映画には、わかりやすい実用性やら、実際に人の命を助けることができる・・・といったような明確なものさしがあるわけではありません。
税金だからといって、誰にでも楽しめるような公共性のある作品をつくれとか、娯楽作品を作れといっているのでも、もちろんありません。その手の作品は、税金ではなく、むしろ営利を目的とした企業作品が十分その役目を負ってるわけですから。
わたしがここで言ってる厳しい責任とは、本来なら個人の財力では作れないような作品を作る機会を与えてもらったことに対する責任です。そういう制度を多くの努力をはらいながらつくってきた行政やCO2実行委員会に対する責任と敬意と礼節の問題、そして税金をつかうことへの仁義の問題です。
(中略)
さんざん税金をつかうことについて言って来ましたが、財政が苦しい中で大阪市がこの企画に税金を投入していることは世界に誇れることだと、本当に思っています。
ここから出ている横浜聡子監督がいい例ですが、ほかの映画祭では絶対にでてこないような才能を輩出する可能性をこの映画祭は秘めているからです。こんなことは東京では絶対に不可能です。大阪だからこそ出来ること、そう確信を持って思います。めちゃくちゃ言ってきましたが、今回の監督たちが将来どう化けるかだって誰にも予想がつきません。そうした自由度の高い映画祭を支援すること、そして、今後も支援を続けることは、行政の重要な使命であり、また世界に誇ってもいい事業だと、一応これでも海外で長年にわたり評価を受けている音楽家のわたしが胸をはって言いたい。こんな映画際があることはすごいことです。
大阪市民の皆さんはこの映画祭を支援していることを誇りに思うべきです。
私は、大友さんの見識に感服します(ただ、ひとつ引っかかるのは「誰にでも楽しめるような公共性のある作品」という書き方で、私は「公共性のある作品=誰でも楽しめる作品」とは思わないです)。書かれているとおり、芸術の創作において助成金を受けることの責任というのは「本来なら個人の財力では作れないような作品を作る機会を与えてもらったことに対する責任」だと思います。
この大友さんのブログに対するコメントも、すごく興味深い。
今回の作品は現場から感じた雰囲気は「映画を作りたい」ではなく「制作費をもらったから作っています」のほうが近かったと思います。もちろんがんばっている人たちも沢山いましたが、現場で何かを進言しても「僕わからないので」「自主映画ですから」との返答が必ず出て来てまるで他人事のように進んでいました。
これもまた、映画だけじゃない、多くの芸術活動で助成金を受けて制作しているときに生まれるジレンマで、「そうそう、そうなんだよねえ」と思う人は少なくないと思います。
これは、助成金を受ける側の問題もあると思うけれども、実は、助成する側の問題も考えなきゃいけないと思うんです。大友さんが言うところの「責任」を助成する側こそが求めて然るべきだと思うんですが、とくに公的な助成機関が求める「責任」は、その助成金の使途が規定通りに使われているかどうか、ということになりがちです。その責任は、助成する側の説明責任としては必要かもしれないけれども、芸術活動上の責任ではないと思う。
大友さんは、作品そのものも素晴らしいけれども、アーティストとしてどのように社会と向き合うのかという態度も素晴らしい。そういう態度でなければ、ああいう作品も生まれないよなぁ。

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