1.22.2009

私が考える「市民社会」

明日、東京大学の文化資源学公開講座「市民社会再生」の修了式があります。Panasonicの協賛で3年間のプロジェクトで、2回目の修了式。私は運営委員会とその事務局スタッフとして参加させてもらっています。
今年度も、この講座からたくさん刺激を受けました。毎回、「市民社会って何?」という疑問に立ち戻るんですが、ようやく私は、私なりに答えを見つけたような気がしています。
「人間は一人では生けていけない」という言葉があります。これは、人には他者の存在が必要だとも言い換えられますが、別の言い換え方には、すべての人が他者のために存在している、ということでもあると思います。つまり「必要とし、必要とされている」存在なんだと。
例えば夫婦は、基本的に互いに「必要とし、必要とされる」関係だと思いますが、子どもが生まれれば、関係のバランスは変化します。さらには、仕事でも地域でも、必要とし、必要とされる関係は発生し、多様な価値を持つ人間との関係が発生します。
すると、単一の価値の人間同士よりも、関係のバランスを維持したり発展させるのは、困難になります。その一方で、必要とし、必要とされている関係が、多様な価値を含むことで、環境変化に対応できるように、集合体を発展させることができるんだと思います。
この「必要とし、必要とされる関係」は、本来、一人一人の欲求が出会うことで関係が生まれるわけです。例えば、料理をするのが大好きな人と、食べるのが大好きな人が出会うのは、幸福な出会いですよね。でも、たいがい私たちは、欲求よりも、経済価値や社会制度が関係を支配することの方が多いと思うんです。
そうしないと社会は成立しない、という見方もあるかもしれません。でも、これだけ多種多様な人間がいるわけだから、「必要としている人」と「必要とされたい人」が出会い、新しい関係を創ることを、諦めめてはいけない気がするわけです。もし、諦めることが許されてしまったら、戦争で命が失われても「必要な犠牲」で片づけられてしまう。
つまり、人間の集団の中で、必要とし、必要とされる関係が、経済や制度に支配されずに、個々人の欲求によって結びついていて、バランスが維持し、発展できる集合体。それが、私が思う「市民社会」。
考えてみると、あるがままの自然界の生物というのは、そういう環境の中で生まれて死んでいくわけです。あ、生物多様性と文化多様性は、そういうところで繋がるような気がするなぁ。

-----------------
sent from W-ZERO3

0 件のコメント:

archive